drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

”推す”ことの罪悪感を抱えながら生きている

数年前からBTSに心を奪われてからアイドルというものに興味を持つようになった。

30年近く生きてきて私の中で大きなパラダイムシフトがBTSによって引き起こされたのだ。

キムソクジンを皮切りに軍への入隊が発表され個人活動を開始することに一抹の寂しさを覚えながらほそぼそと彼らを追いかけている日々である。

6月以降周囲が徐々にペン卒をしていく中、私はどこにも行けず立ち尽くしている。

やっぱり執念深い性格で、一つのものに執着してしまうのだなという同しようもない自分の習性にためいきをつく。

New Jeansの曲が素敵だったから応援しようと張り切ってオンラインミーグリに応募して当選したにも関わらず、仕事の都合で参加ができなかったという間の悪さからいまいちバニーズとしての人生を追求できずにいる。

 

 

BTSにはそれぞれが軍隊から戻ってきたら、自分たちの好きなことをやりつつできればグループとしての音楽活動もしてほしいなとひっそり願っている。

みんなが戻ってきたら、Super Juniorみたいに活動してほしいので、今更スジュの動画を観たりしている。エルプたちの激動の17年を思うと私が何かを言うのはおこがましいなと感じる。

でも、各メンバーがそれぞれの仕事をしながら新曲を出しコンサートをしてくれる(全員参加では残念ながらないが)のは本当に幸せだろうな、と思う。

 

推す、という行動がもてはやされる時代ではあるけれども私はこの言葉に居心地の悪さを感じる。

ファンダムと言われながらそこにグラデーションがあることは明らかである。

推す人ひとりひとりがBTSという存在、もしくはそのメンバーに期待することが違うのは当然だろう。同じグループを応援し、アーミーと言われるファンダムに属していると自覚していてもひとりひとりが違う人間であるのだから。

ファンダムの美しさが宣伝される一方でみんなが美しい気持ちを持ち続けられるわけではない。

ネットに溢れるouttagとouttag撲滅派の争いや、古参とダイナマイト新規の交わらなさだとか、リアコだとか同担拒否だとかサセンだとか、世の中にはわかりあえなさが溢れている。

違うことを認めながらお互いに共存していける、そこにBTSという媒介があるからというのがファンダムの理想的なあり方であろう。

 

現実はそううまくはいかないようだ。

 

推すならこう在るべきという理想を押し付けるのはやめよう、というのが私の決めた自分を守る方法である。私はBTSをなにかの一位にするために投票はしないし、音源を回さないしすべてのグッズを買ったりしない。

みんなのソロ曲は一度は聞くけれど好きじゃないのに無理に持ち上げたりしない。

(J-HOPEのやりたいことはわかるがエモっぽい音楽は好きではないのでjack in the boxははまらなかった。キムソクジンのことを本当に尊敬しているし大好きだが、クリス・マーティンの作る音楽は今も昔も全く好きではないしその価値がわからないのでこれもMVを一度みることしかできなかった。ジョングクのleft and rightは彼のボーカルがジャスティン・ビーバーみたいに唯一無二のものになれる可能性を感じて将来が楽しみになった。でも、これはすべて私の個人的な感想なのでこれが普遍的な批評だとは思っていない。)

 

ファンダムの中でこういう態度を示すのは他の人にとっては不愉快だろうとわかるので、私は自分をアーミーだと主張しない。

 

6月のバンタン会食でアイドルという職業は人を成長させない、もう作りたい歌詞も思い浮かばなくなった、という言葉が語られた時その責任の一端が私にもあるような気持ちがして辛かった。

 

推しの向こう側には、感情を持った人間がいる。

 

子供の頃街を歩いていて、周囲の人それぞれが今なにかを考えて自分の意志を持って生きていると気づいた時、ものすごく気持ち悪くなったことがある。

 

当然のことであるのに、しばしば私達はこんなことを忘れてしまうのだ。

 

アイドルたちもまた個人の考えと理想と葛藤を抱えた人間である。

 

推す、という言葉を使う時推している人間は自分の何かを犠牲にしているという自負がある。

何かを犠牲にするとそれに対する対価が与えられるのが当然だと人は感じるのだろう。

本来であればその対価はアイドルが提供するコンテンツである。

それが行き過ぎると、これだけを犠牲にしているのだから推したちもこういった態度をとるべきだとか、こういった考えを持つべきだとかいう考えは少し間違っていると思う。

推し方にはバリエーションを許容しながら、推される側には自分の理想とする態度しか許さないのはあまりに不自然だろう。

 

推す、という言葉が私が嫌いなのはこういった意識が透けて見えるからだ。

と同時にアイドルを推すということに私は罪悪感を感じる。

彼らを商業的に自分勝手に消費していることが本当にしんどいのだ。

心から彼らの幸せと平穏を祈っている。

音楽を作ったり、人前にでるのがしんどくなればもうやめたっていいんだよという気持ちもある。

なんでこんなに感傷的になるのだろう。

この湿っぽさだった私はなんとなく許せないのだ。

 

 

BTSが好きになってから他のアイドルのことも気になるようになってきた。

ツイッターのタイムラインを慎重に眺めると、こんなにもたくさんの人がいろんなアイドルを推しているのだなと気づくようになった。

人のことをとやかく言わないと心に決めながらそれでも辛くなることはある。

 

tresureをめぐってのちょっとした騒動は本当に悲しくなった。心が傷んだ。

ファンダムを相手にして戦ったり自分の主張を続けることの気の遠くなるような労力を考えると本当に祈りを捧げたくなる。

この時代に日本においては、誰かを推すことと自分のことを大事にすることが両立できないという悲しさがあった。

推すことが盲目的に誰かを肯定することだと一方的に押し付けられる暴力を認めたくなかった。

(ファンダムはアイドルがデビューするとなにかの一位にするために自分の時間とお金を費やすけれど、晴れてアイドルが有名になると、自分たちのことを大事にしなくなったとか以前は個としてファンダムを認識してくれていたけどいまはbunch of peopleとしてしか認識してくれないと言い出すのは何なのだろう?)

推すことが自分と誰かを窮屈にしているなんて、どうしてそんな悲しいことをしてしまうのだろう。

 

K-popという巨大な産業がある一方で日本には伝統的なジャニーズアイドルが存在する。

キングアンドプリンスの1件で彼らの楽曲と今回の退所の間接的な原因になったのではと言われるトラヴィスジャパンの曲を聞いてみた。

聞いてみた、それだけだ。

ファンにとってはものすごく悲しいことだと思うけれど、海外を目指したかったけれどそれはかなわないという彼らの言葉の意味はよくわかった。

悲しいから、彼らの行動とか言葉になにか別の意味を探してみたり、誰か悪者を探して見る気持ちは理解ができる。

しかし、もし本当の理由があったとしてそれを知ってどうなるのだろう。

本当のことなんてすべて伝える必要もない。

それはあらゆる面において。

 

 

キムナムジュンの発言で、BTSを愛することを通して自分自身を愛してくださいというものがある。

しばしば感動的な文脈で取り上げられる、ファンダムとアイドルがお互いに依存し同一視しているようなこのことばが私は苦手だ。

あくまでも対等な、お互いが一個人であるという考えを持たないと私達の関係性はいびつでトキシックなものになりうる。

少なくとも私はこう思いながらアイドルを推すことを自分に課している。

これを読む誰かがどう思うかに関係なく。