drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

check your lipsticks before you get to the town

新しい季節が来るときに私が一番恐れているのは自分の異動じゃなくて行きつけのお洋服屋さんの担当さんがいなくなることだろう。

今の服屋に通いはじめて4年、ついにその時が来た。

涙の別れの挨拶をした。

 

担当さんがいなくなったあとの服屋に行くのはなんだか気まずいし、はじめての店のような気もするのでたいてい居心地が悪い。

 

別の店を開拓すべき頃合いなのかもしれない。

 

お洋服は販売員さんとのコミュニケーションの中で広がっていくものなので、いい関係を築けるかどうかでその後の洋服人生が変わってしまうのだ。

 

担当さんのいないその洋服屋に行って、別の店員さんとなんだか噛み合わない会話をしたあと化粧品売り場に行く。

阪急には百貨店とは別の場所にカジュアルダウンした化粧品売り場派出所があるので私はそこに向かう。

threeの2020春コレクションセットをなんとなく買ってみた。

アイパレットが欲しくてセットの口紅はいらねーなーとかおもいながら。

 

 

いつまでもルポールのドラァグレースS12を放映してくれないNetflix Japanに愛想をつかしてWOWにまたお金をはらって新シーズンを見出した。

ファッショニスタシーズンだね。やったね。

 

最近ルポール御大にはアンビバレントな気持ちを抱きつつあるけれど、

we're just humans in drag

と聞いてから私はそうやって生きている。

 

そんな服着てどこいくのとか、おしゃれすぎるとか、そんなことをいわれてもお洋服が好きなんだから着飾って出ていくのはやめられない。

おしゃれすることを許してくれる街に住みたい。

生き抜くために洋服を着るのだ。

 

ドラァグクィーンたちにシンパシーを抱くけれど、彼女たちの化粧に対するこだわりについては楽しそうだけどそこまでできねえやと思って過ごしてきた。

逆さまつげだからまつげカーラーをしても意味がないしマスカラもつけない。

口紅は塗らず、ディオールの唐辛子成分の入った唇がプルプルするやつだけつけている。

 

 

2020年の春のthreeの口紅をなんとなく家に帰ってつけてみる。

鏡をみると、こんなにしっくりするものがあったのかと驚く。

 

 

ああこういう気分になるために彼女たちは着飾るのだ。

 

by アップルシード

どんな服を着てたっていいと肯定してくれるユートピアがどこかにあるはずだから

バーニーズ・ニューヨークが閉店した日に、思い生理痛を抱えてセレコックスしかない実家でこたつの中でひたすらミラノコレクションをみていた。

 

コロナウイルスの思わぬ余波でインバウンドに頼っていた日本の百貨店はどうなってしまうのだろう。

人影もまばらだ。

 

SNS時代とうまく寝てみせたアレッサンドロ・ミケーレのグッチをみる。

ああ、グッチ的ロマンティシズム。

彼は天才だろうか、でも私はそれには乗らない。

 

 

ファッションが環境汚染を助長していると言われて久しい。

こんな時代錯誤な業界に私は未だに執着している。

 

小さい頃誰に言われるでもなくCSのプロジェクトランウェイとかファッションニュースの番組を見ていたときからなぜか私はハイファッションに夢中である。

母親も父親も特段洋服やハイブランドに意識の高い人達ではなかったけれど。

 

大学時代はバイト代のすべてを洋服に注ぎ込み、受注会で予約した服代を捻出するために毎月食費を削っていた。

 

ニュアンスとフォルムが服では一番大事だと思う。

ヴィヴィアンウエストウッドのドレスのドレープやスカートの立体感に心奪われたことを覚えている。

 

 

何を着るか決めるときはいつも引き算だ。

これはやらない。

これは着ないことから考えていく。

 

私はブランドのロゴものは着ない。

服での自己顕示欲を嫌っているから。

ダウンジャケットは着ない。

ずんぐりむっくりしちゃうから。

 

結婚式をするくらいならそのお金でサンローランのスーツを仕立てたい。

ラフシモンズ時代のディオールの素敵なドレスを買いたい。

 

 

インスタグラムで流れてきたボッテガ・ヴェネタのアイスブルーのクラッチバック。

ボッテガなんて下品って思っていたのにそのあまりの可愛さに(あまりにベージュのトレンチコートとの相性が良い)どうやって40万円を捻出するか考えているのだ。

 

お洋服を目の前にすると私の頭はくらくらと狂っていく。

 

 

 

ラフシモンズプラダの共同ディレクターになるという。

待ちに待ったレディースへの復帰である。

カルバンクラインに札束で頬を叩かれた彼のみんなが望んだ復帰劇である。

 

くらいニュースの続くファッション業界における明るいニュースである。

 

2021シーズンのランウェイを心待ちにして私は生きていくだけ。

 

by 白ワイン3杯

アダム・ドライバーは二重顎にたいする罪悪感を軽くしてくれる

テリーJが死んだからテリーGの映画を観に行った。

パイソン名義以外のテリーGの映画を観たことがなかったのでビクビクしたけれど、ホーリー・グレイル的な演出を多々認めたので安心して見ることができた。

 

スターウォーズとマリッジストーリー、SNLと続けてアダム・ドライバーばかり観ているとなんだかかっこいいんじゃないかと勘違しだすので脳は怖い。

カイロレンがはじめてマスクを外したときには思わず苦笑してしまったのにね。

ドン・キホーテにおいても傍若無人なマスキュリンなキャラクターなのかと思いきや、めちゃくちゃ情けない役柄であった。

後ろで髪をくくっているのも良いし女優よりしっかり顔がでかいのも良い。

鼻がでかい上にそこから下がかなり伸び切っていてだらしないのが良い。

当然ながらアゴ周りもダルダルなので情けない顔をするときには二重顎になっている。

ムキムキなくせに顔がだらしないのでハリボテに見える。

 

彼がかっこよく見えるのは俯瞰でのカメラからだけである。

しかしてそんなどうも華のない俳優が演技がうまくてそこそこ売れているというのはなかなか素晴らしい。

そんでもってサラッと踊ってみたりする。

 

 

それにしてもパイソンズの中でも明らかにプライドの高いテリーJが前頭葉認知症に罹患し自分の書いたスケッチすらわからなくなっているというニュースには目頭を熱くしたものだ。

パイソンズの中で一番小さい男、個人的にはリーストフェイバリット、彼が主役のスケッチで好きなものは何かと聞かれると困ってしまう。

ドキュメンタリーでみるとあまりにプライドが高そうなのに、スケッチの中では一番バカっぽい役をやるときが輝いているという皮肉。

 

R.I.P. テリー・ジョーンズ

 

いろいろなカルチャーが危機に瀕しているけれど私はコメディだけはずっと明るい気持ちで接することができるので好きだ。

ニッキージャヴェイスがゴールデン・グローブから追い出されることが決まったっていう悲しいニュースもあったけれど。

Netflixで見るべきはドラマシリーズでもアニメーションでもなくコメディシリーズだと推していきたい。

SNLをまた日本で普通に翻訳で観られるようにしてくれればいいのに。

 

pop life the podcastはそろそろ小説だとかコメディも扱ってください。

 

 

byマテ茶

 

 

ごめんね、私は旧世代のハッピーチャイルドだから

pop life the podcasを聞いて、ついにゲーム・オブ・スローンズの最終章を見だした。

ネタバレを存分に浴びたあとに見ても泣けるし笑える。

あと2章を残すのみ。

最高にクールなのはキングオブザ・ナイトがラスボスじゃなくて、サーセイがラスボス扱いなところでしょう。

アリアーー!!と叫びながら見ています。

 

S1の1話ではあんな幸せそうだった北の子達も結局みんなもとのハッピーチャイルドには戻れない。一緒に暮らすことすら選べない。

 

ゲーム・オブ・スローンズが始まったときには世間ではまだ#me tooだとかフェミニズムの運動だとかは大きな盛り上がりを見せていなかった。

なのに、世相を予見するかのようにこのドラマはいつでも女性優位の世界だった。

確かに、女性を蹂躙する男もたくさん出てくる、ジョフリーだとかラムジーだとか。

リトルフィンガーだとか。でももれなく彼らは報いを受け、七王国のほとんどが女性が牛耳る社会になっている。

でも彼女らは極めて女性的なアプローチでその地位を手にしている。

デナーリスを見てみよう。彼女が権力を握れたのは母になれるというその一点に依っている。

くだんのポッドキャストのなかでエンドゲームの中のガールズパワーの描き方がヘドが出るぜとおっさんたちが言う。

私もそれに諸手を挙げて賛成する。

ディズニーの社会情勢に対する目配せが気に食わない、もちろんそれが一つある。

私の疑問はもう一つある。女性ヒーローが列になって的に対峙していく、つまり男とおんなじように私らだって戦えるんだぜというそういうシーンであろう。

女性の社会進出だとか権利の獲得を描くときに、男と同じようにできるんだということを示すという方法が多く取られている。

果たしてそれが正しいのであろうか。

男と女は違う。生物学的に違う。できることが違う。能力も違う。

フェミニズムを主張するときに同じであることが重要なのだろうか。

同じように戦えることを示すことでしか私達は自分たちの非劣性を示せないのは明らかに間違っている。

違うんだから、違うけれどもなんだってできる。

 

ゲーム・オブ・スローンズはそれをうまく描いている。

デナーリスはドラゴンから降りるとサージョラー・モーモントに守られないと長い夜を生き延びられない。でもそれは彼女を貶める材料には決してならない。

その一方で今まで母であることにこだわり描かれたサーセイが、母であるサーセイこそが素晴らしいと言われたときにあっさりミッサンディを突き落とす姿の見事さ。

男が勝手に抱く母なるものへの神秘性を打ち砕く。

男と同じように冷酷である。それが、彼女の次の子を守るためになる。

 

ツイッターで女性は音楽評論家にはなれないという記事がバズっていた。

音楽オタクの局地的バズ。

 

フェミニズムを語るときなんでみんなそんなにシリアスなんだろう。

上の記事では、ほとんどの記事がおっさんが書いているんだから、私達が消費するのはおっさんたちによって選ばれたものであると書かれている。

確かにそれは問題だ。記事は絶望的なムードで結ばれる。

わかるわかる、絶対的に正しい。

でもユーモアが足りない。フェミニズムにはユーモアが足りない。

みんなしかめっ面でこれもできない、これにもなれない社会が許してくれないから、社会を牛耳るおっさんたちが選ばないからと繰り返す。

 

恵まれた環境で恵まれた教育と概念を両親は与えてくれたので、私はいつもあなたが全力で望めば何にだってなれるし道は開けると言い聞かされてきた。

その言葉があるから私は今でもハッピーチャイルドである。

 

はてなブログに掲載されたその記事のタイトルは女は音楽評論家になれない、だったと思う。その扇情的なタイトルをタイムラインで見たとき、違うよ女の子はもはや音楽評論家なんて職業を選ばないんじゃない、と思った。

ビッチ、そんな仕事こっちから願い下げだよ。

一体こんな時代にだれがシリアスに音楽について語り合って満足しているんだ。

デイブシャペルのスペシャルを見たあとだからかもしれない。

選ばれない自分に傷ついている場合じゃない。

こんな時代だからこそ、女だからというだけで雇ってくれる媒体もあるだろう、そいつらにいいようにされている場合じゃない。

 

pop life the podcastを聞くのはどんな回でも苦痛を伴う。

 

このブログでも他のソーシャルメディアでも何回も書いてきた気がする。

 

私は田中宗一郎にめちゃくちゃ影響されて育ってきた。

彼の雑誌を見て、彼の評論と対話しながら音楽と世界を見てきた。

ポッドキャストの雰囲気があまりにボーイズクラブすぎるから?違う。

いや結論はそこに帰するのかもしれない。

 

私とたぶん同い年の三原さんの存在にいつも戸惑うのである。

ポッドキャストで語られることのほとんどは、田中宗一郎フリークであれば常識の範囲内というか、いままでの評論や彼の書いてきたことの範疇の話である。

 

しかし彼女は多分それを知らない。あらゆる言葉の意味を知らない。

それが会話の流れを止めるし、おっさんたちのもりあがっている話の中で彼女の話が遮られることはよくあるし、ときに彼女が話をしてもふーんという感じなのである。

つまり私も悪しきボーイズクラブにどっぷりつかっているからなのであろう。

 

 

でもっておっさんではないので、しかも同い年くらいの女性なのでさらにいらつくのである。

おっさんらは多分それを若い女の子の話として面白がって聞いているときもある、それがクールだと表現する。ある意味現代の空気を読まず自分の意見を言える子である。

 

彼女がおっさんにまじりホストとして置かれる意味を考えてみる。

もしかすると彼女はすべてを知っていて、ただそういう文化に無知なリスナーのためにそこはみんなわかるはずないじゃんという冷静な第三者として置かれたのかもしれない。

なるほど、健全な考えだ。

 

しかし、もしかすると彼女自身が本当になにも知らなくて、リスナーの立場を代弁する存在として置かれたのだとしたら?

それって最悪だ。

最悪最悪最悪。

そのポジションに20代の女の子を置くっていう発想こそ反吐が出る。

 

ていうか私は間違いなくそういうポジションとして彼女は配置されていると思うので、だからこそ彼女の発言やそれに対するツイッター田中宗一郎によってリツイートされるリアクションすべてに賛成できない、一つも賛成できない。

 

女性蔑視が問題となる前にはある意味女と男はある種の共犯関係にあったと思う。

女が常に被害者であることなんてなかった。

私達は女であることを利用して、男を利用して生きてきた。

 

三原さんはある意味でおっさんに対して使える若い女の子としての武器を余すことなく使っている。

まじであっぱれである。

 

つらくて毎回聞くことはできないけれど彼女がいつかサンサみたいになることを私は期待している。

 

byシンハービール*2本

 

 

 

 

 

 

 

死にゆく日本の音楽評論、それは人々に求められていないから?  気分が悪くなるほど悪口記事ですからあしからず。

今年は10年に一度のお祭りイヤーなので各社2010年代を振り返ったり、2019年単独で振り返ったりと忙しい。

 

2019年はまあ一般的な目線でいうとビリー・アイリッシュの圧勝である。

大局的に言うと、まあそれしかなかった年とも言える。

 

個人的に言うとヴァンパイア・ウィーケンドも素晴らしかったし。。。。という感じではある。

 

 

およそ5年ぶりにロッキング・オンを購入した。

ベックの日本語で読めるインタビューを目当てにである。

大阪の大きな書店では軒並み売り切れており、なん店舗かを捜索し取り置きの末に手に入れた一冊である。

もちろん2019年ベスト・アルバム特集である。

そして恒例の、高齢者ばかりのったカレンダーがついてくる。

 

ロッキング・オンといえば、知ってるか知らないか知らないけれど、日本におけるたぶん一番売れてる、そして知られている洋楽を取り扱う雑誌である。

多分、前時代的な、私と同じ世代の人間であれば、雑誌をとおしてまず第一に音楽についての先入観やものの見方を学んできたと思う。

何も知らない人にとっての入り口となるツールであった。

洋楽が気になる、なんかクールだよね、でもよくわからないからまずはロッキング・オンに聞いてみよう!的な。

今の時代の子はそうじゃないと思うけれど、情報を手に入れることが難しかった時代はそういうことがあったと思う。

 

そんなロッキング・オンの年間ベストを見てみると頭を抱えざるを得ない。

時代を捉えたランキングじゃとてもじゃないけどない。しかも、雑誌としての主張もみえてこないのだ。

ラフ・トレードのベスト・アルバムは時代を捉えてはいない、でもそりゃラフ・トレードはこういうスタンスだよねって感じである。

ピッチフォークとNMEの差異だってわかる。

ロッキンオンはもうだめだめなのだ。

90年代までに形作られた一つの定型的評価を今の時代でもトレースしているに過ぎないように見える。

 

そんなロッキング・オンですらビリー・アイリッシュを選ぶしかなかった現実はまさに彼女の圧勝を物語っているわけだが。

そのアルバムにつけられたコメントも思考停止した大人のコメントとしか言えないものである。

 

私に言わせると、彼女を現代の救世主のように捉えるメディアや大人こそがイルである。ビリー・アイリッシュとかグレタちゃんを持ち上げたり叩いたりして世の中のイル具合を理解していない大人って結構多いと思うのですがどうでしょう。

”若いのにこんなことを言うのってえらい”とか”目立ちたがりがこんなこといいやがって、叩いたろ”とか。

まるで自分がその問題と関係がないかのように、それに何らかの形でメンションする若い子に目配せしてみせるおっさんとかおばさんとかってまじで終わってないか?

同時代を生きているのであれば同等の責任でそれを背負ってみせるべきなのに。

若いのに偉いなあじゃない。

 

ベックの音楽を二項対立で語ってみせる浅はかさにもうんざりさせられる。

そしてredditでも散見された言葉ではあるが、第二のシーチェンジを望む声ってこの世でまじで一番不要なものではなかろうか。*1

 

音楽におけるジャーナリズムは日本においてどこで生き延びているのだろうか。

もちろんロッキンオンの年間ベストにおけるそれぞれのアルバムにつけられたコメント(もう評論とは呼ばない)は順位に関係なく書かれたものもあるだろう。特に15位以降においては順位は関係ない。非常に限られた文字数でうまく書かれたものだってある。

でももう大きな文脈の中ではそれは空虚に響くのみである。

 

音楽評論だけではない、評論はどこにむかっているのか。

 

 

私のこの文章はまったく評論ではない、そんなつもりで書いてはいない、でもそういうメンタリティーの文章が増えてあたかもそれが批評だとかなにかものを知っている人の文章として扱われがちなのではないか。こんな世の中では。

 

確かに無料で読める説得力と確かな知識に裏打ちされた文章もネットの海を探せば見つかる。

だがそれを手に入れるのには方法を知っていなければ難しい。

 

私がなにかの批評として最近評価できるのは書肆侃侃房によるアメリカ文学ポップコーンみたいなやつだけである。

文化は誰にでも望んで対価を払えばアクセス可能なものとなっている、ある程度は。

そこで理系の世界でいうとエキスパートオピニオンみたいなかなり信頼度の低いものが、エキスパートでもない人が語るそういったものが一人歩きしがちな世の中になっているんじゃないかと言ってみる。

 

でも振り返れば、語られる場所が変われば意見も随分変わるなと思い出しました。

 

その大昔ピート・ドハーティケイト・モスがつきあってたころ、音楽好きからすれば色々言いたいこともあったろうに、ファッション雑誌からは一方的にピート・ドハーティの悪口ばかりかかれて嫌な気分になったこともある。

 

アレックス・ターナーと名前は忘れたけどただのインフルエンサーの女の子がつきあって、別れたときもファッション雑誌はアレックス・ターナーの偉大さを無視して女の子アゲの記事を書いていたことを思い出した。*2

 

エキスパートオピニオンってそんなもんなので、なんか誰かの言うことをたった一つの真実みたいに捉えるのってほんとに危険だし馬鹿げているのだ。

 

と思う。

私はそう思うけど、みんなどうなんでしょう。

 

まあ、ロッキング・オンは日本人を馬鹿にしてんじゃないのと思うので私は怒ってます。

まじで、かばいようもないでしょ、なにか擁護できる点があれば教えてほしい。

 

 

by箕面ビール IPA*2

 

 

*1:シーチェンジとはベックが長年連れ添った彼女と別れた喪失感で作られたアルバムである。オディレイのあと、勝手にベックを落ちぶれたとみた批評家がベックの復活として神格化するアルバムである。シーチェンジが好き、というのと第二のシーチェンジを早く聞きたいな☆というのは全く別のものいいである。一方はまあそうかもねだが、もう一方はあまりに馬鹿げている。今になって第二のシーチェンジを望むという声が多く聞こえてくるのは、2019年にベックが長年連れ添った奥様と離婚したからである。つまり、音楽評論家を装って、公共の雑誌の場でベックの人生をいやしくもエンターテイメントの場として消費し、にやにやとつらいことがあったんだから次はそういうアルバムを作ってくれるよねとのたまっているのである。

*2:アレックス・ターナーは2008年の時点ではイギリス政府のホームページに国を代表するバンドとして挙げられていた。彼らがセカンド・アルバムを出した時点でである。大傑作、夜を走る王子ことAMが発売される随分前のことである。つまり客観的にみて、文化的にも歴史的に見ても時代に吹き飛ばされうるインフルエンサーと比べてアレックス・ターナーは大人物であった。しかし、ファッション雑誌系のセレブニュースはまじで狭い目線で書かれている事が多くアレックス・ターナーをどこぞの鼻くそ扱いしていたのである。そんな記事つけられたヤフーコメントはまたまた頭が痛くなるほどの低レベルなので一興。

Beck is Home PART2   〜ベックの帰還(そして目指すは宇宙を越えたその先へ)〜

1994年にソニック・ユースのサーストン・ムーアが司会を務めたMTVの”120minutes”にベックがゲストとして登場した。毎週月曜日の午前1時から3時に放送され、他の時間では流せないような変なミュージックビデオばかりを流す番組だった。インタビューはコマーシャル無しで4分くらいだった。その内容は概ね1990年代のオルタナティブカルチャーのシニシズムと作為的な無気力感を反映したものだった。私はこの番組がお気に入りだった。二人とも声を荒げる事なく(興奮を表すにはある種の会話における約束がひつようだったろうが)ただ番組のシナリオをばかにしながらうまく利用していることは明らかだった。

 

ムーアは当時23歳だったベックに”Loser”がヒットしたことをどう思うか尋ねた。

「油の流出事故が起こった海でサーフィンをしている感じ」

と答えた。

「まさにそんな感じだよね」とムーアは返す。

ベックは小さな器械を取り出し溶けたカセットみたいな音を流す。

「そのとおり。」とムーアはいう。

コマーシャルのあとムーアはベックに本当の名前を尋ねる。ベックは彼の靴を壁に放って、ムーアは「わかったよ。」というのだ。

 

MTVに対してふざけるのはまあ間違ってはいない。1年前にベックが”120 minutes”に出演した際には、”MTV makes me want to smoke crack”というシャギーなフォークソングを披露した。”MTVをみてると薬をやりたくなる/窓から飛び降りてそれで終わり”と彼は歌う。近年、セレブリティーは自らの地位に関して感謝の気持ちを述べることしか許されない。しかし、1994年にMTVを観ていた中流階級の郊外の10代の若者たちにとっては、何事も気にしない(もしくはそんなふうな態度をとることが)クールとされていたのだ。私はこの空気感にノスタルジーを覚えた。

 

しかしベックは全く違う現実世界を生きていた。”Loser”のコーラスでは”僕は負け犬だから、ねえなのにどうして僕を殺さないんだ”ーーこの意味ありげな歌詞は怠け者の時代精神の涙を誘い、この一節によってベックはジェネレーションXの時代の寵児となった。しかしこれは根本的に間違っている。ベックは同世代の若者たちとは全く違うリアリティーの中にいた。ラテン系アメリカ人がマジョリティのコミュニティの中で”グエロ”として生き、低所得者層に囲まれて暮らし、退廃した暴力的な地域で過ごしてきたのだ。”Loser”でさえ歌詞は断絶から始まる。:”チンパンジーの時代に僕だけが猿だった”彼は吐き捨てる。

 

ベックの初期の歌詞は支離滅裂でMTVの美学(ジャンプカット{*編集の用語、あるシーンから別のシーンに突然移り変わること}や恣意的なイメージが襲いかかってくるような)に対する皮肉を反映したものだと思われていた。

「当時はうまくやれていないっておもっていた。」

「しくじったんだ。みんなは僕のことをポップカルチャーのジャンクなサーファーだと思ってた。いろんなイメージを詰め込んだ幻想的な言葉を使うのが好きだったからね。そうすることで、言葉は宝石みたいに輝いて見えたから。世の中の多くの曲の歌詞は使い捨てられてどうでもいいよう言葉ばかりに思えた。だから自分の歌詞には生き生きとしてオリジナリティと驚きに溢れた言葉を使おうとした。評論家たちは”君の歌詞ってなんの意味もないんだろ。適当な言葉を投げ込んで並べてるだけなんだ”って。」

「僕はふーん、って思った。この言葉にはよく悩まされたよ。」

「だってさ、どうやったら自分の中にあるイメージをを一つのラインに収めることができるんだろう?この世界の全部を5つの単語で表現できると思う?」

 

 

ある日の午後、ベックはハリウッドにあるキャピタルレコードの13階建てのレコードを積み上げたような円形をしたビルに私を招待してくれた。私達はスタジオBで会った。

「僕のレコードの編曲の殆どはこのスタジオでやってるんだ。」

彼は部屋を指しながら言う。曲のオーケストラパートは自分で編集することが多いのだという。

「ほとんどは単純化する作業だね。このコードは濃すぎるとか、このメロディはひどいサウンドトラックみたいだなって感じでね。」

彼は父との作業を単純に楽しんでいるようだ。

「儀式みたいなものはまったくないんだ。これできる?って聞いてもちろんだよって。そんなふうにね。」

 

ベックのエンジニアの一人デイヴィッドグリーンバウムが山のようなハードドライブを持ってきてくれた。そのンカには何百時間もの未収録の音源があるという。

「無限にあるよね。」

とベックはいい、二人でいくつかのミックスを聴かせてくれた。”hyperspace”の別の曲や”Roma”にインスパイアされた曲、古いデモ、”rococo”と題された未発表アルバムに入るはずだった重厚な螺旋状のクラフトワークのような曲もあった。曲の多彩さはくらくらするほどで、ベックのボーカルだけを取り出してみても表現するのは難しい、ファルセット、ラップ調などなど。

 

「彼みたいな音楽家はいないよ。」後にグリーンバウムは私に言った。

「誰一人として彼みたいに深く音楽を探求してる人はいない。」彼はベックのスタジオでの徹底した仕事ぶりを語る。「彼は何万もの違うバージョンだとかアプローチをすべて試すんだよ。一旦出来上がったものよりいいものができるんじゃないかって思ってね。どんなに深く掘り下げていったとしても、前のものより良くないって思ったら喜んでもとのアイディアともとの状態に戻ってくるんだ。」

 

 

ベックの父キャンベルは編曲したときと曲が発表されたときで全く違うものに変わったことが何回もあるという。「私が編曲したに曲には違いないのですが、別の形になっているんです。毎度のことなんです。そのたびに”うわー、全く別の曲だな”と思うのです。すごく新鮮な気持ちになれますよ。」

 

10代の頃ベックは映画が好きだった。特にヨーロッパの大胆でユーモアに溢れる作家のものを好んだという。

フェデリコ・フェリーニ、ジャン・リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーミケランジェロ・アントニオーニルイス・ブニュエルとかね。」

「”Odelay”は僕の生まれ育った場所のバージョンでのフェデリコ・フェリーニをやろうとしたんだ。」

彼のお気に入りの映画監督たちは普通の日常を捻じ曲げて、まるで幻想的なものに作り変えることができる。ベックが言うところの「狂気と幻想と詩的な瞬間」に。

「こういった映画を理解してはなかった。ただ”なんだこれは?”って。でもすごいことが起こってるんだって感じたんだ。」

 

ベックの音楽はたいていポップ・ミュージックに分類される。特にここ10年間は大きな野外フェスティバルのビール売り場でも流されるようなアンセムにシフトしていっている。しかしその中にもするりとアヴァンギャルドなカノンを落とし込み、より空想的なイメージの強い音楽家たちのような仕事もやってみせる。ジョンアッシュベリーの詩を彼にメールすると、アッシュベリーの本が積み上げられた写真を送ってきた。本の背はひび割れていた。

 

”hyperspace”におけるやわらかなシンセサイザーの音は我々に何かを問いかけるような賛美歌のような響きを持っている。

「だんだんシンプルなラインのもつ美しさにとりつかれるようになったんだ。例えば話をしているときは二度と振り返ることのないようなことも曲の中では際立って見えるようになるんだ。」

 

アルバム全11曲中7曲はファレル・ウィリアムスとの共作だ。ウィリアムスは現代ポップミュージックを定義付けた人物である。彼の”hyperspace”における貢献はラジオで流れる以外のものである。”saw lightning”はウィリアムスが共に書き、プロデュースし、さらに歌ってもいるが(かれのパートはかすかではぎり取られたようにみえる)どれもミニマルでもマキシマルでもあり、ビートがスライド・ギターやベースラインによってとぎれとぎれに聞こえてくる。

「賢い男なんだ。、時宜や大衆の求めているものを理解しどのタイミングで現れるべきかを正確にわかっている。」ウィリアムスはベックをこう評する。「いつもそれを彼らしいやり方でやってのけるから楽しいんだ。僕はベックをそのやり方が好きなんだ。同時代の音楽全てから突出しているし、みんなと同じことはしない。彼はいつも草原を歩いてきたんだ。ロサンゼルスやシアトルには高速道路もあるのに、彼だけはいつも彼の心の中の草原にいるんだよ。」

 

ウィリアムスは二人の曲に対するアプローチは全く異なっているが、互いに補い合うようなものだという。

「僕らの共通点は面白くて新しいものをさがしてるってこと。一つの大理石をみても、僕らは違う鏨をつかって彫刻を作り上げるんだよ{*完全なる意訳、意訳中の意訳です。}」

 

ベックの音楽をつなぐ物語の糸は、やわらかな実存の強迫や無常感であろう。”子どもたちが走り続ける場所なんてない/君もなにか見つけるだろうね”アルバム最後の曲"Everlasting nothing"で彼はこう歌う。愛の興奮の中でのぼんやりとした瞑想を歌う”chemical”のコーラスは哀願のように聞こえる;"愛は化学的なものだから/もう一度、もう一度始めよう"と。彼の歌声は霧散する。彼はしばしば、二人の人間がお互いの存在に気づく壮大な瞬間について歌う。私達と同じように、ベックもなにか美しいものとのふれあいを求める。しかし同時に彼は人生が陳腐なものになりがちであることも知っている。”hyperspace”のはじめのシングル曲"uneventful days"では、彼はパートナーとの感情的なデタント{*緊張緩和}について言及する。”何を言っても僕にとってはどうでもいいんだ/君の考えを変えることもできない”。彼の声は優しくそして疲れ果てたように聞こえる。この曲ではぼやけたシンセサイザーのリフが続くが暗さではなく退屈を表現しているのだ。もう一度気分良くなるにはどれくらい待てばいいんだ?はじめのバースでベックは”孤独”という言葉を使う。ボーカルエフェクトもあたかも彼が本当に孤独であるかのように響いている。まさに、悲嘆の後でなにか次に起こることが待ち構えているようなギリギリの状況が曲のなかで表現されている。ベックはその輪郭を本能的に捉えているようだ。

 

彼は”hyperspace”はある意味飢餓感についてのアルバムだという。

「僕にとってはデジタル社会に潜んでいるものに思える、何かを切望することがね。」

「テクノロジーは人間同士の交流や相互作用を奪ったなんてよく言われるけれど、僕は違うと思う。最終的には生のつながりを希求するようになると思うんだ。」

 

パシフィックダイニングカー{*L.A.のレストラン}は1990年にサンタモニカに2店舗目をオープンしたが、太古の昔からシュリンプカクテルを出していたようにも思える。ベックと私がついたときには、金曜の深夜で店は図書館のように静まり返っていた。美しく精巧なカーペットの敷かれた床を通って、緑のビニール椅子の席についた。銀製の花瓶には黄色いバラが描かれている。ウェイターは蝶ネクタイをつけていた。

デイヴィッド・リンチの”Bonanza”みたいだろ。」

ベックはリブステーキとほうれん草のクリームあえ、マッシュポテトを注文した。

 

 

夕食の後、海までドライブした。ベックは時々太平洋の様子を見に訪れるという。車からでて波打ち際を歩く。細い三日月が夜空に浮かんでいる。私達はどうやって、いつ音楽を作り終わったかどうか気づくのかについて話をした。

「”終わったかな?”っていうポイントがあるんだよ。」

「でも目覚めると作っている音楽のことばかり考えているよ。メロディーやハーモニーやベースラインについてね。頭の中でずーっとラジオが流れてるみたいにね。」

もしかして自分が世界にあってほしいと思うものを作ったときに終着点なの?と私は尋ねた。彼は少しの間考えてこういった。

「やりきったかどうかはまだわからないよ。」

 

 

 

*1

 

byコロナビール1本

*1:終わった。これをするのになんと20時間くらいかけている、そして両手の痛みという代償を抱えて。これでお酒を浴びるほど飲んだっていいんだという開放感に溢れて。。。

Beck is Home from the New Yorker -ベックのファミリーヒストリーとNYに殴り込むまでの前半戦-

ベックが子供のころ、母親は彼と弟をLACMAに連れていき、この中から一番好きな絵と嫌いな絵を選んで、と言った。

「ものすごいプレッシャーだったことを思い出すよ。」

彼の新しいアルバム”hyperspace”が発売される数週間前、LACMAのアーマンソン館の中庭でこう言った。

 

彼はミラードシーツの”天使の飛翔”をお気に入りとして選んだという。1931年にアメリカ人の画家による油絵で、LAの中心街で2人の黒髪女性がバルコニーからバンカーヒルを見下ろす様子が描かれている。

「バンカーヒルはフィルムノワールの舞台にもなっていて、一風変わったちょっとみずぼらしくて後期ヴィクトリア調の景色だった。1960年代にバンカーヒルの一帯を市が爆破しちゃったんだよ。」

野外の中庭に点在する建物群を含めて美術館のほとんどは来年の頭に取り壊されることが決まっている。隣接する建物への通路とするためだ。49歳になるベックはこの場所にかすかな哀愁を感じているようだ。ここがなくなる前に、例えばエレベーターのそばに掛けられた20世紀中期の真鍮製の時計や、でこぼことしたコンクリートの床といった内装の写真を彼は撮りたがっていた。すり減ったオーク材の壁板の前で彼は立ち止まる。

「最近こんな写真ばっかり撮ってるんだ。過去のものにお別れを言って、新しいものを探し出しているんだよ。」

彼はスマートフォンを取り出し、美術館の中庭で撮影された白黒写真を見せてくれた。そこには5,6歳のころの弟のチャニングが、カメラに向かって少し頭を傾けながら歯を見せて幸せそうに笑っている姿が映っていた。

「このポーズをみてよ!」

そういって次に7,8歳のころの自分の写真を見せる。写真の中の彼は手作りのスーパーマンのマントをみにつけ、腰のあたりにはプラスチック製の6連銃をぶら下げ、手にセサミストリートのオスカーの人形を携えている。

「いい写真だよね。」

笑いながら言う。

「人形を持ったスーパーマン保安官だ。」

 

カセットで最初のアルバム”golden feelings”を発表した1993年から、ベックの音楽はスタイルとトーンを変化させ続けてきた。彼の音楽は、その人生のほとんどを過ごしたLA以外のものでつなぎとめることは難しい。彼はこれまでに14枚のアルバムを発表し、優雅でゆったりとしたフォークソングを集めた2014年の”mornig phase”でのalbum of the yearを含めてこれまで7つのグラミー賞を獲得している。彼の音楽をいくつかのジャンルに分類しようとすると、例えば悲しげなフォークだとか、ぐちゃぐちゃになったヒップホップ、ポストモダンサウンドのつぎはぎだったり、セクシーなエレクトロポップだとか、そんな風に言われるだろう。でも彼のアルバムのほとんどは、そのジャンルの隙間のどこかにこぼれ落ちていく。まさにぬいぐるみを持ったスーパーマン保安官だ。彼はプリンスみたいなファルセットを使ってJ.C.ペニー{*向こうの百貨店}でこそこそ逃げ回るナンパ師みたいなこともできるし(1999年の”midnite vultures”での”debla”のように‐仕事が終わったら夜遅くに君を迎えに行くね/ねえ僕のヒュンダイに乗ってよ/グレンデルに連れて行くから/まじで、おいしいご飯を食べに行こうよ)、生々しい静謐なコーラスもできる(2002年の”sea change”の”guess i'm doing fine”での‐僕が生きてるっていうのは嘘/僕が泣くのはただの涙/僕が失ったのはただ君だけ/きっと元気でやってるから)。どちらのスタイルだってより彼らしいなんてことはない。ただ彼の音楽は時折聴き手に、恍惚か破滅かどちらがより重要であるのかを問いかけてくるのだ。

 

LACMAで”音の物語”というクリスチャン・マークレイの作品を見た。スナップチャットに投稿された何百万ものビデオを使ったインスタレーションの一連の作品群である。ベックはマークレイの作品をよく知っていた。

「彼は本当にすごいんだ。」

「テレビで彼がレコードをばらばらに切り刻んだ後つなぎ合わせていたのをみたよ。」

ベックとマークレイは2人とも物事を再文脈化することを重要視している。そのうえで一般に広く信じられている、音楽がどのように作られ供給されるべきかという考え方に疑問を呈してきた。1985年にマークレイは”カバーのないレコード”という1曲の実験的なアルバムをパッケージなしで発売した。レコードにできたひっかき傷やへこみが蓄積されすべて音楽の一部になるのだ。この作品は、私たちが普段しているきちんと録音された音楽を聴くという消費の在り方が必要のないしばりであることを示唆している。2012年にベックは”ソングリーダー”を発売する。これは12枚の楽譜のボックスセットで、その中には40以上のイラストが描かれていた。”ソングリーダー”は音楽をレコーディングするという考えから切り離した。曲はだれとでも共有でき、どんな風にもなれるし、その時々で形を変えるのだと示したのだ。

”the organ”と名付けられたマークレイの作品では、暗い部屋に置かれた小さなシンセサイザーにスポットライトが当たっている。各々のキーにそれぞれ音が割り当てられ、音と同時にスクリーンに映像が映し出される。ベックは私に丁寧にベートーベンの”歓喜の歌”の弾き方を教えてくれた。私が弾けるようになれば二重奏ができると思ったのだろう。

「だんだん良くなってるよ。」

まったくそんなことはないのに彼は言う。

私たちは天井から42個のiPhoneが吊り下げられた”しゃべって/歌って”の部屋へ移動した。1つ1つのiPhoneが話しかけるか歌うかをするように来場者に促してくる。そうすると、その内容に合うようなスナップチャット上のビデオを選んで流してくれる。ベックは低いエコーがかったバージョンのジョニー・キャッシュの”ring on fire”をうたった。

「シャツを脱いだ男がポルトガルで話すビデオだよ。」

 

目立ちたがりの大袈裟な物言いをする人ばかりのソーシャルメディアで調子っぱずれなギターの音ばかりを聞いて過ごしていると、現代社会の不協和音に対してシニカルになることは簡単である。しかし、マークレイの作品はどれも遊び心とユーモアにあふれている。ベックの音楽も同様で、時に2つの真逆のものが同時に真実であると考えざるを得なくなる。世界は恐ろしいけれどどこかおかしくて、未来は明るいけれど考えたくもないようなものであって、とても悲しいのに踊っちゃうような、家にいるはずなのにそこがもう全く別の場所にように思えるような。

 

評論家たちはベックの暗い、シンガーソングライターのレコードをより重要視しているようだ。しかし彼自身は喜びを表現することのほうが難しいと感じている。彼の13枚目のアルバムに収録された”Wow”という曲ではエンニオ・モリコーネを思わせる唸るようなシンセサイザーの音が使われている。”Wow!”ベックは歌う。何とかして言葉を引き出したように。”まるでこの瞬間みたいに”華やかな作品だがぼんやりとした感傷がある。最初のコーラスの間、ベックは”Oh wow”とうめき声をあげる。喜びを思い出すべき時に定期的に喜びについて考えている自分がいることに目がくらんでいるようにみえる。

「人間ドラマよりコメディをうまく演じるほうが難しいってよく言うよね。それと同じようなものだよ。」

彼は私に尋ねる。

「ねえどうやったら物を浮かせることができると思う?」

 

ベックは26年間ずっと複雑な形をしてちぐはぐな意図を持った音楽を作り続けてきた。彼の曲は”レゴムービー2”での”super cool”からアルフォンソ・キュアロンの”ローマ”にインスパイアされた”trantula”まで多彩である。彼の初期のアルバムはよく荒廃した曲の集まりと評されるが、彼は音楽の技巧と構造についてきちんとした考えがあった。時にはファンクやR&Bに傾倒し、ファルセットに磨きをかけステージ上でスプリットを披露して見せたりする。彼はシングル曲”sexx laws”のなかでは”どうだっていいだろ/セックスするときのお作法なんて”と歌って見せる。(これはO'l dirty bastardのDont you knowからインスパイアされたものだ)。R&B歌手のジニュワインのようにベックの歌詞は巧妙に滑稽さと魅惑的なものの間を行ったり来たりする。”君にこの世にないフルーツを食べさせてあげる”と”nicotine and gravy”で彼は歌う。

 

1994年に発表された彼の最初のメジャーアルバム”mellow gold”におけるベックの視野と野心についてのいくつかのヒントがある。シングルとなった”loser”はチャートの10位に上り詰め、屈折したポストモダンバージョンのボブ・ディランの”subterranean homesick blues”みたいな曲だ。ベックはディランと同様、ごみ溜めから何かを拾い出す才に長けていた。しかもベックの場合はディランが行ったのに加えて数十年分の音楽の採掘を続けてきた。つまり、ブルーズ、カントリー、ゴスペル、フォークだけでなく、ヒップホップやディスコ、パンク、エレクトロという要素も組み合わせたのだ。ベックの初期のアルバムはファイル共有システムの先を行っていたと考えるのはおかしなことだろうか。これらのアルバムはいろいろな物事が同時に存在していることのスリルと恐怖をうまく表現している。ベックはいまだに、最も期待される現代社会への審美眼を持った音楽家であり続けている。

 

彼は170cmの細身でハンサムなどこか繊細な印象を抱かせる人で、ターコイズ色の瞳の奥には深い探求心を秘めている。話してみると、おもしろくて、やさしくて好奇心の強い人物だとわかる。彼は1970年7月8日に生まれ、ベク(bek)デイビッドキャンベルと名付けられた。彼と弟はその後母親の旧姓であるハンセンを名乗るようになる。ベックはもともとの名前にcを足してみんなが自分の名前を正しく発音できるようにした。

「いまだにブロック、ブレック、ビークとかいろいろ呼ばれるよ」

「レコード会社の偉い人が一度別れ際に”会えてよかったよ、ビック”って言ったんだ。」

 

彼の父親デビッド・キャンベルはLAを拠点に活動する編曲家・作曲家でありそのキャリアをキャロルキングの”tapestry”でのヴィオラ奏者として始めた。その後、ローリングストーンズ、ガースブルックスメタリカ、アデルなどとも仕事をしてきた。ベックのアルバムでのオーケストラパートの編曲もほとんどが彼によるものである。子供のころベックは父親の仕事をはっきりわかっていなかったという。

「父は仕事について話すことはなかった」

「10-15年前にタペストリーのCDを買ったんだ。クレジットを読んでたら、父親の名前を見つけて、僕はタペストリー、あれーってかんじ。彼の活動の一つだった。」

キャンベルはトロントで生まれ、70年代の初めにLAに移り住みその後すぐにサイエントロジーに入信した。

 

今年の2月ベックは2004年に結婚した女優マリッサリビシとの間に離婚が成立した。彼らには二人の子供がいた。この経験は胸が張り裂けるようなものだったという。リビシの家族もまた熱心なサイエントロジストとしてしられている。何年もの間ベックがサイエントロジストであるのか否かについてがメディアの関心の種だった。彼について書かれた記事のほとんどにサイエントロジストである旨が記されている。

「僕は人生のほとんどを音楽に費やしてきた。それが一番大事だなことだったから。宗教は僕の人生の中心にはならなかったんだ。」

「僕がサイエントロジストだっていう思い違いがある。そういう時期はあった。確か2000年代の初めかな。家族からカウンセリングを受けたほうがいいってすすめられたんだ。でも宗教についてそれ以上積極的に追求することはなかった。」

 

ベックとリビシとの結婚生活には終止符がうたれた。しかし”hyperspace”はもう一つの別れの際に書かれた”sea change”とは異なる様相を呈している。アルバムの中で最も優れた曲の中には楽観的であまつさえ恍惚としてみえるものまである。

「別れの結果としてできたものでは決してない。」

彼はアルバムと私生活との関係についてこう断言する。概して彼は最近自分に起きたことを題材にして音楽を作ることがなくなったという。

「曲の中にむりやり自分の人生を詰め込もうとしても僕の場合には全くうまくいかないんだよ。」

 

ベックの母親、ビビ・ハンセンはパフォーマンスアーティスト兼女優だ。彼女の父親、アル・ハンセンはフルクサスの初期メンバーだった。1945年に軍に落下傘兵として従軍し翌年ドイツに駐軍したときに、ピアノを屋根の上から落として見せた。このピアノの落下は世界初の”ハプニング”と評されることがある。制度の文脈を外れて作用する、儚いマルチメディアアートパフォーマンスである。

「祖父は第三世代のニューヨーカーでめちゃくちゃタフだった。」

「僕が親友と大騒ぎをしていた時に、彼の大きな大切なコラージュ作品にぶつかったんだ。凧みたいな形の木でできた作品だったけど、友達の足が作品の下のほうをぶち破っちゃったんだ。」

おじいさんはおもしろがっただろうね、と私は言った。

「そうだろうね。」

ベックはうなづく。

「彼はバーの用心棒だった。1970年代のジャックニコルソンにブコウスキーを少し足して、74年のインタヴューの時のルーリードを金髪にしたようなね。」

アルハンセンはよく、たばこの吸いさしだとか袋とじ、キャンディの包み紙を使ってコラージュ作品を作った。

 

1998年にサンタモニカ美術館で”ベックとアルハンセンーーマッチで遊ぼうーー”と題した展覧会が企画された。キュレーターはアルハンセンのおかしな要素を並べることで挑発的で予期せぬものを作り出すという美学がベックの音楽と通ずることを見て取ったのだ。ベックとキーボーディストのロジャーマニング、ベーシストのジャスティンメルダルジョンソンは展覧会の初日に一日限りの”新時代の内臓摘出術(PART1)”を披露した。ベックは聴衆に

「人生で最も長い20分間になるでしょう」

と言いパフォーマンスの最後にはチェーンソーでシンセサイザーを切って見せた。

これはいずれにせよ”ハプニング”であった。

 

アルハンセンは詩人のオードリーオストリンと結婚し、1952年にビビが生まれた。オストリンは1968年にグリーンウィッチヴィレッジで急逝した。ビビが10代のころにアルは彼女をアンディウォーホールに紹介した。彼女はいくつかの映画と”スクリーンテスト”に収められている。”スクリーンテスト”はウォーホールが60年代半ばに発表した、被写体をカメラのまえにじっと座らせそれを白黒の写真に収めた作品群である。

「14歳の時にヴェルヴェットアンダーグラウンドを知ったんだ。母親が”それ気に入ったの?昔の知り合いよ。”って言って、彼女の友達がウォーホールの助手だったころの話をしていたよ。彼はステージの上ではバンドに鞭をふるっていて、彼女はダンサーの一人だったっていうんだ。」

ベックは彼の携帯の中の母親とウォーホールのミューズの一人であった、イーディーセジウィックの写真を見せてくれた。写真をスクロールし、暗い色のブレザーを着てサングラスをつけ涼しげな顔で本をめくっているウォーホールの横でハンバーガーを口にねじ込むビビの写真で手を止めた。ベックはこの写真をいぶかしげな表情でみつめ

「これが母がウォーホールの横でハンバーガーを食べてる本当の写真」

と笑う。

「どんだけおなかがすいてたんだよって思うよね。”もう三日も食べてないんだから”って感じでね。もし10代のころにこの写真を見てたらぶっとんでたよ。」

 

ある日の夜ベックは彼が生まれ育ったロサンゼルス中心部のドライブへと連れて行ってくれた。

「これが本当の近所ってやつじゃないんだ、ハリウッドとかシルバーレイク、サンタモニカみたいなね。忘れられた地域との間にあるようなところが僕の生まれ育った場所なんだ。」

彼は渋滞の中を銀色のメルセデスを運転しながら説明する。

「ピコユニオンと呼ぶ人もいるし、ウェストレイクってよぶひともいる。L.Aか、安っぽい街だよねっていうような人たちと育ったんだ。僕にとってのL.A.は”ベイウォッチ”みたいなL.A.とは全然違う。」

「ビーチがあるって?どんなビーチのこと言ってるんだよって感じ。」

最近彼は町中を運転するときには80年代のニューウェイブやパンクが流れるKROQHD2を夢中で聞いているという。

「まるでタイムポータルみたいなんだ。秘密のドアが開かれるみたいにね。子供のころに聞いていたDJが登場したりして。」

彼の両親は町の中心部のダイナーで婚約した。この場所は今ではメトロPCS{*通信会社}の店舗になっている。彼らがごく若いころにベックとチャニングが生まれた。

「子供たちは大きくなるまで目に見えてないって感じだった。」

 「小さい時からやりたいことは何をやっても許される、完全なる自由が約束されていたんだ。」

ビビとデイビッドはベックが10代前半のころに離婚した。ベックは母と弟とともに下宿屋ワンルームマンションを転々として暮らしていた。

「伝統的な両親じゃなかった。」チャニング・ハンセンも言う。彼は今L.A.でビジュアルアーティストとして活動している。

「正規の仕事についていなかったし、マイホームもなかった。」

 

ウェストレークの通りにはかつて上品なヴィクトリアン調の家々が並んでいた。しかし、1997年にロバートジョーンズがニューヨークタイムズに記したように”白人たちは廃墟を残してエンシノやウェストウッドといった地域に逃げ出した”。1970年代終わりにドラッグの売人やギャングがこの地域に流れ込んできた。その中にはエルサルバドルの内戦から逃れてきた人もいたという。L.A.P.Dが悪名高いCRASHプログラムを導入した時にはベックは9歳だった。(のちにこの作戦は2000年に警察がギャングの活動、殺人、窃盗、リンチに関与していたという密告により終了するまで続いた。)警察はベックが住んでいた建物にもよく乱入したという。もちろん幼い彼にとっては恐ろしい出来事であったろう。彼はただ肩をすくめて

「僕の知っている世界はこんな風だっただけ。」

という。

 

ベックが10代のころマッカーサーパーク{*1985年以降には地域のかなり危険な公園であった。ドラッグが蔓延し暴力沙汰や殺人が起こっていたという。}を通りぬけようとしたことのことをこう語る。ゾンビのような人たちに四方八方から声をかけられて

「まるで”生けるコカイン中毒者たちの夜”{*原文は Night of living crackheadゾンビ映画の”night of living dead”とかけているのでしょう。}だったよ。この辺りはどこでも危険な場所ばかりだった。」

「近所にセブンイレブンがあったけど、そこには行けなかった。40歳くらいの鉄パイプを持った男がいたから。」

 

彼は古い場所をありがたがっているわけではない。しかし角を曲がるたびに高級化した地域が現れることに少しまごついているようだった。6番街とサウスラブリー通りでは広々とした新しい地ビール醸造所が立っていた。魂の一部がゆすぶられたように彼は大きく目を見開き、

「いったい何なのこれって?」

「みてよ、こんなものなかったのにね。」

 

私たちはベックが生まれたときに家族が住んでいた建物の外に車を止めた。ピンクがかった2階建ての住居で、がたついたフロントポーチに鉄の鎖が巻き付けられ中に入れないようになっていた。

「まさにこの目の前の部屋に住んでたんだ。ほかにも10人くらいの人が住んでいたよ。」

数ブロック先まで車を走らせ

「高級化されていないところへ行こう」

と言った。

ベックが大きくなったころ母親はセクション8の公共家屋を与えられた{*低所得者向けの住宅保証システム、現在もある様子}。そのころの家々は今ではほとんどが取り壊されたり、板で囲われ取り壊しを待っているような状況であった。そして私たちは壊れた掃除機を外に置いた、黄色いバンガロー、きっと不法占拠しているのであろう、を見つけた。屋根のタイルは欠けていた。

「わあ」

彼はこういって公園に車を寄せた。

「きっと最後の一軒だろうな。」

バンガローから男が出てきて歩道を歩いて行った。

「予言するよ。来年かそこらにはこの家もなくなるだろうね。」

 

この地域はL.A.の中でも人口密度が高く、初期のベックの歌詞の中にもそのことが見て取れる。幼い彼はスペイン語を習得しようとしていた。しかしこのことから学校で激しいいじめにあいやめたという。

「やつらヒステリックに叫ぶんだ。このグエロは誰だ?って。」

「だからやめちゃった。」

2005年に”グエロ”というタイトルのアルバムを発売する。グエロはメキシコ系アメリカ人が使うスラングで”雪のように白い肌”とか”金髪”とかいう意味である。”Que onda Guero"はざっくりいうと”なにしてんだこの白人野郎”という意味になる。ダストブラザーズと共作した本作で彼はかつての近所の光景を甦らせた。”道端でバーガーキングの冠をかぶりながら寝ている/あいつらを起こすな(もっとビールを持ってこい)/鶏が鳴くまで(ほら鶏をみてみろ)”この歌詞はナンセンスでも隠喩でもない。

「ある朝道端で寝ている8人の男をとびこえてあるいたんだ。中にはバーガーキングの冠をつけている奴がいたんだ。」

 

 古い町並みの面影を残す景色もある。床屋や深夜営業のダイナーや花屋などだ。

「店の看板は全部手書きでまるでフォークアートみたいだった。トイレットペーパーの絵がかいてあったりね。それぞれの店が3つくらいの宣伝文句を書くんだ。”古家具”ドライクリーニング””課税”みたいにね。」

 

ベックは学校があまりに危険な場所になったため通うのをやめた。

「ある種のターゲットになったんだ。」

彼は俊足でどうすれば目につかなくなるのかを学んだ。

「パフォーミングアートの学校が街にできたから入学希望を出したけど落とされたんだ。」

少し間をおいて続ける。

「自分のしてきたことをよく言うのは嫌なんだ。学校は本当に大事だよ。そこにはすごくいい先生だっていただろうね。」

それまでベック一家は300×50平方フィートの2部屋のアパートに住んでいた。

「僕はダイニングテーブルの下で寝て弟はカウチで寝ていたよ。」

 

彼はバスに乗って中心街の中央図書館に通うようになった。楽譜ばかりを置いてある部屋があって、楽譜の読み方を独学で学び時にはアパートのロビーにあるピアノで演奏をするようになった。彼の音楽のテイストは町によって形作られたのだ。ランチェーラ{*メキシコの伝統音楽}、パンクとニューウェイブをラジオで、ヒップホップとはストリートで出会った。彼はサウスセントラルからバーモント通りをへてロスフェリッツに向かうバスまでの道のりを思い起こす。

「まさにこの場所でバスを待っていたよ。」

8番街とバーモント通の角を指さして彼は言う。

「バスに乗るとグランドマスターフラッシュだとか、当時のクールなラップ音楽がラジカセから流れていたんだ。」

 

彼はだんだんとアメリカ特有の音楽、特に1929年から35年の間のカントリーブルーズや貧乏な南部の音楽家の作ったアコースティックソングに興味を持つようになる。彼の4枚目のアルバム”one foot in the grave”では、1931年に録音されたデルタブルースの薄気味悪いレジェンドの一人であるスキップジェームズが作った数少ない曲の一つである”jesus is a mighty a good leader”をカバーしている。

「母の友達の友達の一人がギタリストでSP盤のレコードのコレクターだった。僕はただの小さな子供に過ぎなかったけど、彼は来るたびに空のカセットにSP盤を録音してくれたんだ。」

この男の助けで、ベックはミシシッピジョンハートだとかフレッドマクドウェルだとかいったブルースの曲をギターで弾けるようになった。

「ベックに音楽の才能があることは明らかだったよ。」

チャニングは言う。

「11歳か12歳の時4トラックのプロみたいな音楽を作ってたんだから。」

 

1986年、ベックが15歳の時中央図書館は火事にあう。

「燃え行く図書館を見つめていたのは子供時代の一番悲しい日の思い出だ。その時思ったんだ。L.A.を出ないとって。ここには何もなかった。コーヒーショップに行くお金もなくて、学校に行かなきゃって思った。」

 

ある昼下がり、バーモント通りに向かうバスでロサンゼルス市立大学を通り過ぎた。

「公立短期大学がどんなものかもわかっていなかった。でも本を持って歩く人たちをみて、クールだし安全に思えたんだ。」

彼は授業に忍び込み、文学課程の教師であった作家のオースティンシュトラウスと彼の妻で詩人であるワンダコールマンと知り合いになる。

「僕の書いたものをいくつか見せて、そしたら彼の授業に出ることを許してくれたんだ。次の年には偽のI.D.を手に入れた。18歳じゃないと入学できなかったから。僕はそのころ15か16歳で入学してからは天国にいるような気分だった。」

 

しかしだんだんと彼はまたL.A.で過ごす自分の将来について不満を募らせていった。

「自分がただなんだかシステムの割れ目の中にすべり落ちていくような感覚だった。」18歳になったとき、安価でアメリカのどこにでも行けると謳うグレイハウンドの広告を目にする。3日かけてバスでNYに到着した。彼の持ち物はウディガスリーみたいなギプソンのアコースティックギターと200ドルだけだった。寮や友達の家のカウチで寝泊りをし、写真ボックスでI.D.を作り劇場の案内係として働きだした。やがてダウンタウンのクラブでアコースティックソングのライブをし始めた。そのころのNYではアンチフォークのシーンが勃興していた。フォークリバイバル原理主義的要素を破壊しようとするムーブメントだった。ベックは小さなスタジオを借りようとしたが、家主が補償金を持って消えてしまったので、そこからはNYのヘルズキッチン簡易宿泊所で過ごすはめになった。

「裸電球と簡易ベッドだけの部屋だった。廊下が浸水して水浸しになったりしてね。まあ全くロマンティックではなかったな。」

「基本的には路上生活者みたいな暮らしをしていた。」と彼は付け加えた。

赤信号で止まった時に私は、自分の子供たちに自分とは全く違う生活をさせてあげられるのはどんな感じかをそっと尋ねた。

「とても誇らしい気分だよ。子供たちが全く違う人生を歩むことができるのは。」

「僕にとっては奇跡みたいなものだよ。」

 

 

by 完全にしらふで後半に続きます