drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

誰か他者を批判したくなったら、自分が恵まれていることに気づきなさい。

Tiktokで生理の時の女の子がめっちゃ臭い、と言って投稿した男の子たちがいたらしい。

1990年の初めに生まれた私には最早理解のできない文化だなと思う。

幸運なことに私は子供の頃から思春期にかけて、そして大人になってからもそんな酷い言葉を面と向かって投げつける相手に出会うことはなかった。

環境のおかげなのか、時代のおかげなのかはわからない。

そしてその男の子たちのことを悲しく思う。

それを投稿することで受けるバッシングを想像できないほどの年齢の子供にも見えなかった。

ショッキングな投稿をすることで、どんな種類の反応であろうと、世間からの注目を浴びることができると確信するからこそ、そういった内容の投稿をしたに違いないだろうからだ。

炎上してもいい、誰からどう思われてもいい。注目を浴びバズることだけが必要なのだと、そういう価値観だけでドライブされ行動してしまう子たちがいることがどれだけ悲しいことか。

 

 

村上春樹についてのpop life the podcastを重い腰を上げて聴き始めた。

村上春樹については世間でたくさんのことを言われていて好きだとか、嫌いだとか彼に対する自分の立場を表明することすら憚られる時代となった。

実際、件のポッドキャストの中でも彼の作品やそのアティチュードは気取っててスノッブなものであるという語り口から始められる。

 

自分の父母の世代の小説家であった村上春樹は彼らの中でも特異な存在だったのだろう。

彼の小説やエッセイやルポは全て揃い、発売とともに家族で競って読んでいた。

海辺のカフカを奪い合うように読んだことを今でも思い出せる。

その狂乱は、1Q84で輝きを失い、色彩を持たない多崎作ると、彼の巡礼の年をもって終わりを迎えた。

 

重松清吉本ばななを読むのに飽きた中学生の頃に彼の小説を読み始めた。

出版された順に、授業中でも机に隠して小説を読んでいたことを覚えている。

私は世界の終わりのハードボイルドワンダーランドと海辺のカフカが大好きだった。

そんな私にとっては村上春樹の魅力はその物語としての面白さ、舞台装置と出てくるモチーフ、自分達の世界のすぐ近くに別の世界があって、そこへの入り口は意外と近くにあるという彼の作品で繰り返されるそのあり方が大好きだった。

ナルニア国物語に親しんだ私にとってはすごく信憑性のある展開であったし、今でもストレンジャーシングスや異世界転生のラノベでも繰り返される舞台装置のあり方だと思う。

彼の作品は漫画にもなりうるしゲームにもなりうるような物語性に満ちていた。

 

 

中高の頃の国語教師は、当時から今までネット上に溢れる村上春樹アンチのように、彼の作品を切り捨てていた。

そんな発言を聞くたびに反感を覚えるくらいには村上春樹は私にとって特別な作家である。

 

彼が私にとって特別な理由の一つは海外文学作品への入り口となったからだ。

中学生の頃には既刊の彼の全ての作品を読み切った私は読む本に飢えていた。

翻訳作品的だと評価された彼を理解するために、彼の文体になったであろう1920年から40年にかけてのアメリカ文学を読み漁った。

そして村上春樹よりそういった作品に夢中になって、自分の文学体験が彼から始まったことも忘れるほどになった。

私は自分の文学体験が幸せだったと思っている。

それの扉になったのは間違いなく村上春樹だったのだ。

 

 

 

((((村上春樹の語り口がスノッブだと言われるのもわかるけれど、pop life the podcastで語られる田中宗一郎氏のノルウェイの森についての議論で感じた世間との隔絶の感の表現も結構スノッブな話ではないでしょうか。。。

ポッドキャストのEP冒頭で語られる、小説において現代で評価される部分が共感である、というエピソードもよくある話で、そういった文学の消費のされ方が人と何かについて語り合おうと思う私の気持ちを削いでいったと確信している。

このポッドキャストはそうでないと信じているから、自分の住んでいる現実世界と違いすぎてあまりに羨ましくて聞けなくなる時がある。))))