drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

リトルリチャードの優しさを持って

最近、あらゆる事象を自分のアイデンティティに引きつけて解釈し語る人が多いように感じてすごくつらい。

そしてそこにそぐわないからといってキャンセルする理由にする人が多くて本当にしんどい。

 

まず大前提として、人のアイデンティティはゆらぎうる。

昨日の私と今日の私は全く違う人間になりうるということ。

そして、あらゆるアイデンティティの人間が生きて暮らす権利を持っているということ。

どの属性に私が属していようが、他の属性の人を排斥する権利はない。

自分がマイノリティではない国でのうのうと暮らしているから言えること、と言われたらそうでしょう。

でも、なぜあなたがマイノリティであるからと言って誰かをキャンセルする許可を与えられていると思うのか。

私はレイシストを憎んでいるし、差別主義者を憎んでいる。

ただ自分がそういった人たちを社会的に抹消したりする権利はないことも知っている。

こういった考え方が私が憎んでいる、狂信的な愛国主義者やレイシストに間違った方法で利用されていることも知っている。

 

社会は色々な属性を複数持った人たちの集まりで成り立っている。

違う考えの人がいてもいい。虚偽に塗り固められた道徳の授業みたいなことを言っているけれど本当にそう思っている。

 

イッタランドにたくさんいるリベラルを自称する人たちに共感できなくなって久しい。

あなた達の怒りはわかる。

あなた達の正しいと信じることはわかる。

でも私はそれに乗ろうと思えない。

K-popアイドルがスタバを利用して、勉強してくださいと言うファンダムのあり方にも

アカデミー賞でのエマ・ストーンの行動を責める人たちのことも

それが正しいやり方だとは思わない。

 

これがシニシズムだと批判されるだろうか。よりよい世界が作られることを諦めているだけだと。

私は自分のことだからちゃんと自己批判ができないだけかもしれない。確かに。

自分の考えに沿う人だけが表現することを許される社会は生きやすいだろうか?

これってクンデラの言うところのキッチュな世界では?

 

私は頭の中がお花畑の左翼だと罵られてもいい。

あらゆるアイデンティティを持つ人がお互いを赦しあい、認め合い、助け合い生きていける世界を望んでいる。