drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

分断は簡単、だからみんなそちらを選ぶ。

日本もやっとdittoが似合うくらいの気温になって私は嬉しい。

そんな時にニュージーンズのリミックスがリリースされた。素晴らしいリミックス集、いかに優れたクリエイターがニュージーンズの人気を裏打ちしているかがわかる。

デビュー以来どの領域にいる音楽好きをも唸らせてきた彼女ら。

けれども私がネット(というかついった、という名の現代の下水道)で目にしたのは分断、分断、分断の連鎖。

主にはニュージーンズおじさんというネットミームを引き受けると宣言した宇野維正と昔からk-pop好き勢の鍔迫り合い。

私はどちらの陣営にもなんだかねー、という気分を持ちつつやりとりを眺めている。

基本的に私は田中宗一郎氏のコンテンツをできるだけ追おうとしているので、来阪イベントとかはここ数年配信、現地どちらかでは見ているしポップライブなど宇野さんが出演している回は聞いている。ついったにいるkぽ好きの人たちは実際の知り合いは1人もいないが複数人の人をフォローしていてにゅじおじに言及していない普段のついっとも観察している。

社会に対するおおまかな捉え方や価値観が両者で天と地ほど違うということもなさそうだし、極端な思想に傾倒した人だっていない。

少なくとも2年くらい前の来阪トークイベントでは宇野さんは分断こそが一番危険なので何かを二項対立で考えるのをやめようね、という意見を提示していたと覚えている。

 

なのに、同じ音楽を聞いていてもさらにそれが好きであっても分かり合えずというかお互いを攻撃し合うのはなぜなのだろう。

にゅじはいいねーってそれぞれで言っているのに、なぜ他のことでブロックしたり叩き合ったりしてるのだろう。

にゅじを媒介にしてなぜ分断を自分たちで生み出すのだろう。

お互いがお互いのせいというのであれば、それこそ社会におきた分断の全てがそこに帰着してしまう。イスラエルパレスチナの分かり合えなさをすごく小規模でしょうもない領域で再現しているようにも思える。それをどうにか乗り越える方法を考えないと八方塞がりだと両者とも知っているだろうに。

大きなことについては立派なことを言ったり立場を表明できるのになぜこんなしょうもない場では同じように振る舞えないのか。むしろ逆だろと言いたくなる。そんなふうに振る舞っても何も犠牲にされないと知っているからの態度だとするとあまりにも傲慢だなと思う。

 

私が愛してやまないサバイバル番組といえばこの世では現在2つだけだけれど、その1つル・ポールのドラァグ・レースのS10のシーズンフィナーレで番組の歴史をセレブレイトする5分くらいの映像が流れたことがある。(ネットフリックスではS12とS13しかみられないので皆さんwowにお金を払ってみましょう。)

サリージェシーラファエルのナレーションで展開されるこの映像の終盤にこういった一節がある。

10years later, instead of focusing on the things that divide us, " RuPaul's Drag Race" celebrates what brings us together.

2018 年に作られたこの映像のこの一節が私は大好きで、折に触れて思い出す。その後に引き続く、ジョン・オリバーの”ルポールのドラァグレースの中にこそ自分が暮らしたいと思ったアメリカがあった”という言葉とともに。

もちろん2018年の時点でも、そして2023年になった今でも、このサバイバル番組のシナリオの中でもその外でもそれがいつも美しい形で行われているわけではないことを私達は知っている。でも、そう思わせてくれる何かがあるので私はこの番組を見続けている。音楽や、映画や本に求めるものは、異なる個人である私達を結びつける何かをcelebrateするということだ。

ニュージーンズという素晴らしい音楽、そしてそれに大衆性、ポップさを付与したクリエイター陣の手腕とそれを見事な形で体現してみせたミンジ、ハニ、ダニエル、ヘリン、ヘインの5人を称えながら、それを媒介にしてお互いの違いを憎んでみせるこの仕草が私には許容できない。ニュージーンズがデビューしてから折に触れて引き起こされる両者の対立を見ていると、分断すること、誰かを自分とは違うと責めることがいかに簡単な選択肢かを思い知らされる。

分断の時代から抜け出すことの難しさを、分断こそが現代における一番危険な選択肢だと理論的には知っている両者ですら自ら選ぶのだ。気が遠くなる。