drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

国際アセクシャルの日に 親愛なる***達へ

丸屋九兵衛氏の動画配信、少女マンガについてのもの、を大笑いして見ながらこの日を迎えました。

安野モヨコ氏のハッピーマニアについて語ったその回を見るために初めて有料動画に手をだしてしまった。そして案の定最高でした。

夫の方の庵野氏の密着ドキュメンタリー放送後のネット上での反応を見ると、庵野を生かしてくれてありがとう安野モヨコよみたいな感想が散見されたため、そんな内助の功みたいな称号に収まる人ではないぜという悔しい思いを抱えていた私にとってこの漫画がどんなにすごいかと触れてくれるメディアがあることは救いであった。

重田カヨコは恋愛を追い求める女である。満たされることなく愛を求める姿に呆れるを通り越して尊敬を覚えるほどだ。

アセクシャルという概念を知り、自分もそこに属していると自認するようになった。

10代はじめのころにヘドウィグアンドアングリーインチを観てから自分の半身を追い求める様になったあの音楽と映像を観てからある意味その呪いにかかった。

つまり人間誰しもかつて太古の昔に離れ離れになった自分の半身が世界のどこかにいるのだという強迫観念である。男でも女でも良い。

セックスはできる、でもこの人でないととか恋い焦がれる気持ちはわからない。

他者に対する親愛の情はわく、でもそれが恋愛でないことはわかる。

好きな人くらいいるでしょ、とかそういう言葉を投げられると戸惑ってしまう。

半身を持たずたった一人で生まれてきたとしたら、ではどうすればよいのか?

でもそんなはずはないので未だに私は半身に出会えていないだけなのだと思い続けていた。

 

半身に出会わなければ意味がないという強迫観念。

ジョン・キャメロン・ミッチェルの呪い。

友達が結婚するたびに、ああこの人も半身を見つけたんだ。という驚きと寂しさを積み重ねてきた。

そんな私の人生はトッドチャベスによって変わった。

ボージャック・ホースマンに登場する、はじめはどうしようもなくダメ人間に見えた彼が私に光をもたらした。

エンライトメントである。

エウレカ

アセクシャルであるという概念を知らないまま生きていた頃は、普通ではないという自分をなんとなく理解しながらそれに対する明確な答えがないため、普通ではない自分を補うための要素を探していたような気がする。

普通でないことをだれかにとやかく言われないためには自分はこうあらねばならないという思い込み。

LGBTQをめぐる議論はここ数年で大きな進歩をついに日本でも見せつつある。

けれどもアセクシャルはその俎上に上がることすら少ない。

理解しなくてもいい、概念をまず知ってください。

 

アセクシャルが恋愛の話を読んで共感できるのか、と言われるとよくわからないけれど手に入らないものを追い求める重田カヨコの気持ちは痛いほどわかる。

 

 

話題は変わって、近頃巷を騒がしている地方紙について。

もっというと地方紙に掲載された4コママンガについて。

言うまでもなく、稲毛新聞に掲載された偏見に凝り固まったあの一方的な意見を押し付けるあの漫画についてである。

ことの発端は4月2日発行号での”同性婚って何?”と題された1本であろう。

すべてのコマに注釈が必要になるくらいの出来である。どういう思想をもってこれを書き、それを編集し、承諾され、掲載され、受容されるのか。頭が痛くなる自体である。

ここで筆者が批判し糾弾するのはLとかGとかの人のことであろうか。Tもかな?Bは微妙か。でもまあAのことなんて知らなさそうだしね。

この新聞のバックナンバーを辛抱強く見てみると、この人はどちらかというと象徴としての日本が好きなんだなと思われる。

4月2日号では男女が登場し、女性が同性婚って子供が生まれないんでしょうと男に問いかけるところから始まる。その後日本が少子化で滅びるかもしれない時代に憲法同性婚をすすめるのは狂気の沙汰であり、人権を過度に尊重するあまりに人類がおざなりにされていると続き、締めの言葉は「”人権は地球よりも重し”ってか。」である。

あまりに有名になりすぎたこの漫画について考えてみる。

まず同性婚カップルにも子供を設ける選択肢はある。同性婚をする権利を憲法に定めることは少子化を改善するとは言えないが、少子化をすすめることには絶対にならない。

象徴としての日本が好きな人達によく見られる特徴であるが、彼らは同性愛を否定するときにそれが少子化につながるという論法を用いる。今の時代において、同性愛嫌悪を表立って言うことは彼らにだってさすがにできないのでそれを形を変えて表現しているにすぎないと私は考えている。国を滅ぼす選択肢を取るなんて正気じゃないよというふうに。

国難レベルの少子化に対して、人権が軽んぜられる事態を許容するというのであればそれはあらゆるセクシャリティ性自認の人々にとって問題である。そもそもがセクシャルマイノリティは数多くないはずなので、彼ら、私達の矯正を行ったとて少子化の改善は行われないはずである。

この筆者の、少子化を改善するためには人権を無視してもよいという主張が通るのであれば人間牧場ディストピアが現実のものとなるからだ。生殖可能年齢となった男子から精子を採取し、女子から卵子を取得しそれを適切な場所、試験管でも母胎でもどこかで育てて産み落とすというディストピア

そしてそれまで少子化で国が滅びるという話をしていただけのはずなのに、最後のコマでは地球が滅びるという拡大解釈につながっている。

人権は国より重いが地球より重いかはわからないね、たしかに。

地球にとって人間が害なのは自明の事実なのでむしろ少子化は地球を長持ちさせるのではとすら思うけれど。。。

 

象徴としての日本を愛する人達の主張を聞いていると、彼らよりも私のほうがよっぽど愛国者だと思う。彼らの主張を通しているとどう考えても日本は国際社会で孤立し後退していくしかないと思えるし。

 

アセクシャルの概念が広がってほしいけれど彼らに見つかって自分の主張を行う道具にはされたくないんだよね。

 

 

ハイボール2杯