drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

ごめんね、私は旧世代のハッピーチャイルドだから

pop life the podcasを聞いて、ついにゲーム・オブ・スローンズの最終章を見だした。

ネタバレを存分に浴びたあとに見ても泣けるし笑える。

あと2章を残すのみ。

最高にクールなのはキングオブザ・ナイトがラスボスじゃなくて、サーセイがラスボス扱いなところでしょう。

アリアーー!!と叫びながら見ています。

 

S1の1話ではあんな幸せそうだった北の子達も結局みんなもとのハッピーチャイルドには戻れない。一緒に暮らすことすら選べない。

 

ゲーム・オブ・スローンズが始まったときには世間ではまだ#me tooだとかフェミニズムの運動だとかは大きな盛り上がりを見せていなかった。

なのに、世相を予見するかのようにこのドラマはいつでも女性優位の世界だった。

確かに、女性を蹂躙する男もたくさん出てくる、ジョフリーだとかラムジーだとか。

リトルフィンガーだとか。でももれなく彼らは報いを受け、七王国のほとんどが女性が牛耳る社会になっている。

でも彼女らは極めて女性的なアプローチでその地位を手にしている。

デナーリスを見てみよう。彼女が権力を握れたのは母になれるというその一点に依っている。

くだんのポッドキャストのなかでエンドゲームの中のガールズパワーの描き方がヘドが出るぜとおっさんたちが言う。

私もそれに諸手を挙げて賛成する。

ディズニーの社会情勢に対する目配せが気に食わない、もちろんそれが一つある。

私の疑問はもう一つある。女性ヒーローが列になって的に対峙していく、つまり男とおんなじように私らだって戦えるんだぜというそういうシーンであろう。

女性の社会進出だとか権利の獲得を描くときに、男と同じようにできるんだということを示すという方法が多く取られている。

果たしてそれが正しいのであろうか。

男と女は違う。生物学的に違う。できることが違う。能力も違う。

フェミニズムを主張するときに同じであることが重要なのだろうか。

同じように戦えることを示すことでしか私達は自分たちの非劣性を示せないのは明らかに間違っている。

違うんだから、違うけれどもなんだってできる。

 

ゲーム・オブ・スローンズはそれをうまく描いている。

デナーリスはドラゴンから降りるとサージョラー・モーモントに守られないと長い夜を生き延びられない。でもそれは彼女を貶める材料には決してならない。

その一方で今まで母であることにこだわり描かれたサーセイが、母であるサーセイこそが素晴らしいと言われたときにあっさりミッサンディを突き落とす姿の見事さ。

男が勝手に抱く母なるものへの神秘性を打ち砕く。

男と同じように冷酷である。それが、彼女の次の子を守るためになる。

 

ツイッターで女性は音楽評論家にはなれないという記事がバズっていた。

音楽オタクの局地的バズ。

 

フェミニズムを語るときなんでみんなそんなにシリアスなんだろう。

上の記事では、ほとんどの記事がおっさんが書いているんだから、私達が消費するのはおっさんたちによって選ばれたものであると書かれている。

確かにそれは問題だ。記事は絶望的なムードで結ばれる。

わかるわかる、絶対的に正しい。

でもユーモアが足りない。フェミニズムにはユーモアが足りない。

みんなしかめっ面でこれもできない、これにもなれない社会が許してくれないから、社会を牛耳るおっさんたちが選ばないからと繰り返す。

 

恵まれた環境で恵まれた教育と概念を両親は与えてくれたので、私はいつもあなたが全力で望めば何にだってなれるし道は開けると言い聞かされてきた。

その言葉があるから私は今でもハッピーチャイルドである。

 

はてなブログに掲載されたその記事のタイトルは女は音楽評論家になれない、だったと思う。その扇情的なタイトルをタイムラインで見たとき、違うよ女の子はもはや音楽評論家なんて職業を選ばないんじゃない、と思った。

ビッチ、そんな仕事こっちから願い下げだよ。

一体こんな時代にだれがシリアスに音楽について語り合って満足しているんだ。

デイブシャペルのスペシャルを見たあとだからかもしれない。

選ばれない自分に傷ついている場合じゃない。

こんな時代だからこそ、女だからというだけで雇ってくれる媒体もあるだろう、そいつらにいいようにされている場合じゃない。

 

pop life the podcastを聞くのはどんな回でも苦痛を伴う。

 

このブログでも他のソーシャルメディアでも何回も書いてきた気がする。

 

私は田中宗一郎にめちゃくちゃ影響されて育ってきた。

彼の雑誌を見て、彼の評論と対話しながら音楽と世界を見てきた。

ポッドキャストの雰囲気があまりにボーイズクラブすぎるから?違う。

いや結論はそこに帰するのかもしれない。

 

私とたぶん同い年の三原さんの存在にいつも戸惑うのである。

ポッドキャストで語られることのほとんどは、田中宗一郎フリークであれば常識の範囲内というか、いままでの評論や彼の書いてきたことの範疇の話である。

 

しかし彼女は多分それを知らない。あらゆる言葉の意味を知らない。

それが会話の流れを止めるし、おっさんたちのもりあがっている話の中で彼女の話が遮られることはよくあるし、ときに彼女が話をしてもふーんという感じなのである。

つまり私も悪しきボーイズクラブにどっぷりつかっているからなのであろう。

 

 

でもっておっさんではないので、しかも同い年くらいの女性なのでさらにいらつくのである。

おっさんらは多分それを若い女の子の話として面白がって聞いているときもある、それがクールだと表現する。ある意味現代の空気を読まず自分の意見を言える子である。

 

彼女がおっさんにまじりホストとして置かれる意味を考えてみる。

もしかすると彼女はすべてを知っていて、ただそういう文化に無知なリスナーのためにそこはみんなわかるはずないじゃんという冷静な第三者として置かれたのかもしれない。

なるほど、健全な考えだ。

 

しかし、もしかすると彼女自身が本当になにも知らなくて、リスナーの立場を代弁する存在として置かれたのだとしたら?

それって最悪だ。

最悪最悪最悪。

そのポジションに20代の女の子を置くっていう発想こそ反吐が出る。

 

ていうか私は間違いなくそういうポジションとして彼女は配置されていると思うので、だからこそ彼女の発言やそれに対するツイッター田中宗一郎によってリツイートされるリアクションすべてに賛成できない、一つも賛成できない。

 

女性蔑視が問題となる前にはある意味女と男はある種の共犯関係にあったと思う。

女が常に被害者であることなんてなかった。

私達は女であることを利用して、男を利用して生きてきた。

 

三原さんはある意味でおっさんに対して使える若い女の子としての武器を余すことなく使っている。

まじであっぱれである。

 

つらくて毎回聞くことはできないけれど彼女がいつかサンサみたいになることを私は期待している。

 

byシンハービール*2本