drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

Beck is Home from the New Yorker -ベックのファミリーヒストリーとNYに殴り込むまでの前半戦-

ベックが子供のころ、母親は彼と弟をLACMAに連れていき、この中から一番好きな絵と嫌いな絵を選んで、と言った。

「ものすごいプレッシャーだったことを思い出すよ。」

彼の新しいアルバム”hyperspace”が発売される数週間前、LACMAのアーマンソン館の中庭でこう言った。

 

彼はミラードシーツの”天使の飛翔”をお気に入りとして選んだという。1931年にアメリカ人の画家による油絵で、LAの中心街で2人の黒髪女性がバルコニーからバンカーヒルを見下ろす様子が描かれている。

「バンカーヒルはフィルムノワールの舞台にもなっていて、一風変わったちょっとみずぼらしくて後期ヴィクトリア調の景色だった。1960年代にバンカーヒルの一帯を市が爆破しちゃったんだよ。」

野外の中庭に点在する建物群を含めて美術館のほとんどは来年の頭に取り壊されることが決まっている。隣接する建物への通路とするためだ。49歳になるベックはこの場所にかすかな哀愁を感じているようだ。ここがなくなる前に、例えばエレベーターのそばに掛けられた20世紀中期の真鍮製の時計や、でこぼことしたコンクリートの床といった内装の写真を彼は撮りたがっていた。すり減ったオーク材の壁板の前で彼は立ち止まる。

「最近こんな写真ばっかり撮ってるんだ。過去のものにお別れを言って、新しいものを探し出しているんだよ。」

彼はスマートフォンを取り出し、美術館の中庭で撮影された白黒写真を見せてくれた。そこには5,6歳のころの弟のチャニングが、カメラに向かって少し頭を傾けながら歯を見せて幸せそうに笑っている姿が映っていた。

「このポーズをみてよ!」

そういって次に7,8歳のころの自分の写真を見せる。写真の中の彼は手作りのスーパーマンのマントをみにつけ、腰のあたりにはプラスチック製の6連銃をぶら下げ、手にセサミストリートのオスカーの人形を携えている。

「いい写真だよね。」

笑いながら言う。

「人形を持ったスーパーマン保安官だ。」

 

カセットで最初のアルバム”golden feelings”を発表した1993年から、ベックの音楽はスタイルとトーンを変化させ続けてきた。彼の音楽は、その人生のほとんどを過ごしたLA以外のものでつなぎとめることは難しい。彼はこれまでに14枚のアルバムを発表し、優雅でゆったりとしたフォークソングを集めた2014年の”mornig phase”でのalbum of the yearを含めてこれまで7つのグラミー賞を獲得している。彼の音楽をいくつかのジャンルに分類しようとすると、例えば悲しげなフォークだとか、ぐちゃぐちゃになったヒップホップ、ポストモダンサウンドのつぎはぎだったり、セクシーなエレクトロポップだとか、そんな風に言われるだろう。でも彼のアルバムのほとんどは、そのジャンルの隙間のどこかにこぼれ落ちていく。まさにぬいぐるみを持ったスーパーマン保安官だ。彼はプリンスみたいなファルセットを使ってJ.C.ペニー{*向こうの百貨店}でこそこそ逃げ回るナンパ師みたいなこともできるし(1999年の”midnite vultures”での”debla”のように‐仕事が終わったら夜遅くに君を迎えに行くね/ねえ僕のヒュンダイに乗ってよ/グレンデルに連れて行くから/まじで、おいしいご飯を食べに行こうよ)、生々しい静謐なコーラスもできる(2002年の”sea change”の”guess i'm doing fine”での‐僕が生きてるっていうのは嘘/僕が泣くのはただの涙/僕が失ったのはただ君だけ/きっと元気でやってるから)。どちらのスタイルだってより彼らしいなんてことはない。ただ彼の音楽は時折聴き手に、恍惚か破滅かどちらがより重要であるのかを問いかけてくるのだ。

 

LACMAで”音の物語”というクリスチャン・マークレイの作品を見た。スナップチャットに投稿された何百万ものビデオを使ったインスタレーションの一連の作品群である。ベックはマークレイの作品をよく知っていた。

「彼は本当にすごいんだ。」

「テレビで彼がレコードをばらばらに切り刻んだ後つなぎ合わせていたのをみたよ。」

ベックとマークレイは2人とも物事を再文脈化することを重要視している。そのうえで一般に広く信じられている、音楽がどのように作られ供給されるべきかという考え方に疑問を呈してきた。1985年にマークレイは”カバーのないレコード”という1曲の実験的なアルバムをパッケージなしで発売した。レコードにできたひっかき傷やへこみが蓄積されすべて音楽の一部になるのだ。この作品は、私たちが普段しているきちんと録音された音楽を聴くという消費の在り方が必要のないしばりであることを示唆している。2012年にベックは”ソングリーダー”を発売する。これは12枚の楽譜のボックスセットで、その中には40以上のイラストが描かれていた。”ソングリーダー”は音楽をレコーディングするという考えから切り離した。曲はだれとでも共有でき、どんな風にもなれるし、その時々で形を変えるのだと示したのだ。

”the organ”と名付けられたマークレイの作品では、暗い部屋に置かれた小さなシンセサイザーにスポットライトが当たっている。各々のキーにそれぞれ音が割り当てられ、音と同時にスクリーンに映像が映し出される。ベックは私に丁寧にベートーベンの”歓喜の歌”の弾き方を教えてくれた。私が弾けるようになれば二重奏ができると思ったのだろう。

「だんだん良くなってるよ。」

まったくそんなことはないのに彼は言う。

私たちは天井から42個のiPhoneが吊り下げられた”しゃべって/歌って”の部屋へ移動した。1つ1つのiPhoneが話しかけるか歌うかをするように来場者に促してくる。そうすると、その内容に合うようなスナップチャット上のビデオを選んで流してくれる。ベックは低いエコーがかったバージョンのジョニー・キャッシュの”ring on fire”をうたった。

「シャツを脱いだ男がポルトガルで話すビデオだよ。」

 

目立ちたがりの大袈裟な物言いをする人ばかりのソーシャルメディアで調子っぱずれなギターの音ばかりを聞いて過ごしていると、現代社会の不協和音に対してシニカルになることは簡単である。しかし、マークレイの作品はどれも遊び心とユーモアにあふれている。ベックの音楽も同様で、時に2つの真逆のものが同時に真実であると考えざるを得なくなる。世界は恐ろしいけれどどこかおかしくて、未来は明るいけれど考えたくもないようなものであって、とても悲しいのに踊っちゃうような、家にいるはずなのにそこがもう全く別の場所にように思えるような。

 

評論家たちはベックの暗い、シンガーソングライターのレコードをより重要視しているようだ。しかし彼自身は喜びを表現することのほうが難しいと感じている。彼の13枚目のアルバムに収録された”Wow”という曲ではエンニオ・モリコーネを思わせる唸るようなシンセサイザーの音が使われている。”Wow!”ベックは歌う。何とかして言葉を引き出したように。”まるでこの瞬間みたいに”華やかな作品だがぼんやりとした感傷がある。最初のコーラスの間、ベックは”Oh wow”とうめき声をあげる。喜びを思い出すべき時に定期的に喜びについて考えている自分がいることに目がくらんでいるようにみえる。

「人間ドラマよりコメディをうまく演じるほうが難しいってよく言うよね。それと同じようなものだよ。」

彼は私に尋ねる。

「ねえどうやったら物を浮かせることができると思う?」

 

ベックは26年間ずっと複雑な形をしてちぐはぐな意図を持った音楽を作り続けてきた。彼の曲は”レゴムービー2”での”super cool”からアルフォンソ・キュアロンの”ローマ”にインスパイアされた”trantula”まで多彩である。彼の初期のアルバムはよく荒廃した曲の集まりと評されるが、彼は音楽の技巧と構造についてきちんとした考えがあった。時にはファンクやR&Bに傾倒し、ファルセットに磨きをかけステージ上でスプリットを披露して見せたりする。彼はシングル曲”sexx laws”のなかでは”どうだっていいだろ/セックスするときのお作法なんて”と歌って見せる。(これはO'l dirty bastardのDont you knowからインスパイアされたものだ)。R&B歌手のジニュワインのようにベックの歌詞は巧妙に滑稽さと魅惑的なものの間を行ったり来たりする。”君にこの世にないフルーツを食べさせてあげる”と”nicotine and gravy”で彼は歌う。

 

1994年に発表された彼の最初のメジャーアルバム”mellow gold”におけるベックの視野と野心についてのいくつかのヒントがある。シングルとなった”loser”はチャートの10位に上り詰め、屈折したポストモダンバージョンのボブ・ディランの”subterranean homesick blues”みたいな曲だ。ベックはディランと同様、ごみ溜めから何かを拾い出す才に長けていた。しかもベックの場合はディランが行ったのに加えて数十年分の音楽の採掘を続けてきた。つまり、ブルーズ、カントリー、ゴスペル、フォークだけでなく、ヒップホップやディスコ、パンク、エレクトロという要素も組み合わせたのだ。ベックの初期のアルバムはファイル共有システムの先を行っていたと考えるのはおかしなことだろうか。これらのアルバムはいろいろな物事が同時に存在していることのスリルと恐怖をうまく表現している。ベックはいまだに、最も期待される現代社会への審美眼を持った音楽家であり続けている。

 

彼は170cmの細身でハンサムなどこか繊細な印象を抱かせる人で、ターコイズ色の瞳の奥には深い探求心を秘めている。話してみると、おもしろくて、やさしくて好奇心の強い人物だとわかる。彼は1970年7月8日に生まれ、ベク(bek)デイビッドキャンベルと名付けられた。彼と弟はその後母親の旧姓であるハンセンを名乗るようになる。ベックはもともとの名前にcを足してみんなが自分の名前を正しく発音できるようにした。

「いまだにブロック、ブレック、ビークとかいろいろ呼ばれるよ」

「レコード会社の偉い人が一度別れ際に”会えてよかったよ、ビック”って言ったんだ。」

 

彼の父親デビッド・キャンベルはLAを拠点に活動する編曲家・作曲家でありそのキャリアをキャロルキングの”tapestry”でのヴィオラ奏者として始めた。その後、ローリングストーンズ、ガースブルックスメタリカ、アデルなどとも仕事をしてきた。ベックのアルバムでのオーケストラパートの編曲もほとんどが彼によるものである。子供のころベックは父親の仕事をはっきりわかっていなかったという。

「父は仕事について話すことはなかった」

「10-15年前にタペストリーのCDを買ったんだ。クレジットを読んでたら、父親の名前を見つけて、僕はタペストリー、あれーってかんじ。彼の活動の一つだった。」

キャンベルはトロントで生まれ、70年代の初めにLAに移り住みその後すぐにサイエントロジーに入信した。

 

今年の2月ベックは2004年に結婚した女優マリッサリビシとの間に離婚が成立した。彼らには二人の子供がいた。この経験は胸が張り裂けるようなものだったという。リビシの家族もまた熱心なサイエントロジストとしてしられている。何年もの間ベックがサイエントロジストであるのか否かについてがメディアの関心の種だった。彼について書かれた記事のほとんどにサイエントロジストである旨が記されている。

「僕は人生のほとんどを音楽に費やしてきた。それが一番大事だなことだったから。宗教は僕の人生の中心にはならなかったんだ。」

「僕がサイエントロジストだっていう思い違いがある。そういう時期はあった。確か2000年代の初めかな。家族からカウンセリングを受けたほうがいいってすすめられたんだ。でも宗教についてそれ以上積極的に追求することはなかった。」

 

ベックとリビシとの結婚生活には終止符がうたれた。しかし”hyperspace”はもう一つの別れの際に書かれた”sea change”とは異なる様相を呈している。アルバムの中で最も優れた曲の中には楽観的であまつさえ恍惚としてみえるものまである。

「別れの結果としてできたものでは決してない。」

彼はアルバムと私生活との関係についてこう断言する。概して彼は最近自分に起きたことを題材にして音楽を作ることがなくなったという。

「曲の中にむりやり自分の人生を詰め込もうとしても僕の場合には全くうまくいかないんだよ。」

 

ベックの母親、ビビ・ハンセンはパフォーマンスアーティスト兼女優だ。彼女の父親、アル・ハンセンはフルクサスの初期メンバーだった。1945年に軍に落下傘兵として従軍し翌年ドイツに駐軍したときに、ピアノを屋根の上から落として見せた。このピアノの落下は世界初の”ハプニング”と評されることがある。制度の文脈を外れて作用する、儚いマルチメディアアートパフォーマンスである。

「祖父は第三世代のニューヨーカーでめちゃくちゃタフだった。」

「僕が親友と大騒ぎをしていた時に、彼の大きな大切なコラージュ作品にぶつかったんだ。凧みたいな形の木でできた作品だったけど、友達の足が作品の下のほうをぶち破っちゃったんだ。」

おじいさんはおもしろがっただろうね、と私は言った。

「そうだろうね。」

ベックはうなづく。

「彼はバーの用心棒だった。1970年代のジャックニコルソンにブコウスキーを少し足して、74年のインタヴューの時のルーリードを金髪にしたようなね。」

アルハンセンはよく、たばこの吸いさしだとか袋とじ、キャンディの包み紙を使ってコラージュ作品を作った。

 

1998年にサンタモニカ美術館で”ベックとアルハンセンーーマッチで遊ぼうーー”と題した展覧会が企画された。キュレーターはアルハンセンのおかしな要素を並べることで挑発的で予期せぬものを作り出すという美学がベックの音楽と通ずることを見て取ったのだ。ベックとキーボーディストのロジャーマニング、ベーシストのジャスティンメルダルジョンソンは展覧会の初日に一日限りの”新時代の内臓摘出術(PART1)”を披露した。ベックは聴衆に

「人生で最も長い20分間になるでしょう」

と言いパフォーマンスの最後にはチェーンソーでシンセサイザーを切って見せた。

これはいずれにせよ”ハプニング”であった。

 

アルハンセンは詩人のオードリーオストリンと結婚し、1952年にビビが生まれた。オストリンは1968年にグリーンウィッチヴィレッジで急逝した。ビビが10代のころにアルは彼女をアンディウォーホールに紹介した。彼女はいくつかの映画と”スクリーンテスト”に収められている。”スクリーンテスト”はウォーホールが60年代半ばに発表した、被写体をカメラのまえにじっと座らせそれを白黒の写真に収めた作品群である。

「14歳の時にヴェルヴェットアンダーグラウンドを知ったんだ。母親が”それ気に入ったの?昔の知り合いよ。”って言って、彼女の友達がウォーホールの助手だったころの話をしていたよ。彼はステージの上ではバンドに鞭をふるっていて、彼女はダンサーの一人だったっていうんだ。」

ベックは彼の携帯の中の母親とウォーホールのミューズの一人であった、イーディーセジウィックの写真を見せてくれた。写真をスクロールし、暗い色のブレザーを着てサングラスをつけ涼しげな顔で本をめくっているウォーホールの横でハンバーガーを口にねじ込むビビの写真で手を止めた。ベックはこの写真をいぶかしげな表情でみつめ

「これが母がウォーホールの横でハンバーガーを食べてる本当の写真」

と笑う。

「どんだけおなかがすいてたんだよって思うよね。”もう三日も食べてないんだから”って感じでね。もし10代のころにこの写真を見てたらぶっとんでたよ。」

 

ある日の夜ベックは彼が生まれ育ったロサンゼルス中心部のドライブへと連れて行ってくれた。

「これが本当の近所ってやつじゃないんだ、ハリウッドとかシルバーレイク、サンタモニカみたいなね。忘れられた地域との間にあるようなところが僕の生まれ育った場所なんだ。」

彼は渋滞の中を銀色のメルセデスを運転しながら説明する。

「ピコユニオンと呼ぶ人もいるし、ウェストレイクってよぶひともいる。L.Aか、安っぽい街だよねっていうような人たちと育ったんだ。僕にとってのL.A.は”ベイウォッチ”みたいなL.A.とは全然違う。」

「ビーチがあるって?どんなビーチのこと言ってるんだよって感じ。」

最近彼は町中を運転するときには80年代のニューウェイブやパンクが流れるKROQHD2を夢中で聞いているという。

「まるでタイムポータルみたいなんだ。秘密のドアが開かれるみたいにね。子供のころに聞いていたDJが登場したりして。」

彼の両親は町の中心部のダイナーで婚約した。この場所は今ではメトロPCS{*通信会社}の店舗になっている。彼らがごく若いころにベックとチャニングが生まれた。

「子供たちは大きくなるまで目に見えてないって感じだった。」

 「小さい時からやりたいことは何をやっても許される、完全なる自由が約束されていたんだ。」

ビビとデイビッドはベックが10代前半のころに離婚した。ベックは母と弟とともに下宿屋ワンルームマンションを転々として暮らしていた。

「伝統的な両親じゃなかった。」チャニング・ハンセンも言う。彼は今L.A.でビジュアルアーティストとして活動している。

「正規の仕事についていなかったし、マイホームもなかった。」

 

ウェストレークの通りにはかつて上品なヴィクトリアン調の家々が並んでいた。しかし、1997年にロバートジョーンズがニューヨークタイムズに記したように”白人たちは廃墟を残してエンシノやウェストウッドといった地域に逃げ出した”。1970年代終わりにドラッグの売人やギャングがこの地域に流れ込んできた。その中にはエルサルバドルの内戦から逃れてきた人もいたという。L.A.P.Dが悪名高いCRASHプログラムを導入した時にはベックは9歳だった。(のちにこの作戦は2000年に警察がギャングの活動、殺人、窃盗、リンチに関与していたという密告により終了するまで続いた。)警察はベックが住んでいた建物にもよく乱入したという。もちろん幼い彼にとっては恐ろしい出来事であったろう。彼はただ肩をすくめて

「僕の知っている世界はこんな風だっただけ。」

という。

 

ベックが10代のころマッカーサーパーク{*1985年以降には地域のかなり危険な公園であった。ドラッグが蔓延し暴力沙汰や殺人が起こっていたという。}を通りぬけようとしたことのことをこう語る。ゾンビのような人たちに四方八方から声をかけられて

「まるで”生けるコカイン中毒者たちの夜”{*原文は Night of living crackheadゾンビ映画の”night of living dead”とかけているのでしょう。}だったよ。この辺りはどこでも危険な場所ばかりだった。」

「近所にセブンイレブンがあったけど、そこには行けなかった。40歳くらいの鉄パイプを持った男がいたから。」

 

彼は古い場所をありがたがっているわけではない。しかし角を曲がるたびに高級化した地域が現れることに少しまごついているようだった。6番街とサウスラブリー通りでは広々とした新しい地ビール醸造所が立っていた。魂の一部がゆすぶられたように彼は大きく目を見開き、

「いったい何なのこれって?」

「みてよ、こんなものなかったのにね。」

 

私たちはベックが生まれたときに家族が住んでいた建物の外に車を止めた。ピンクがかった2階建ての住居で、がたついたフロントポーチに鉄の鎖が巻き付けられ中に入れないようになっていた。

「まさにこの目の前の部屋に住んでたんだ。ほかにも10人くらいの人が住んでいたよ。」

数ブロック先まで車を走らせ

「高級化されていないところへ行こう」

と言った。

ベックが大きくなったころ母親はセクション8の公共家屋を与えられた{*低所得者向けの住宅保証システム、現在もある様子}。そのころの家々は今ではほとんどが取り壊されたり、板で囲われ取り壊しを待っているような状況であった。そして私たちは壊れた掃除機を外に置いた、黄色いバンガロー、きっと不法占拠しているのであろう、を見つけた。屋根のタイルは欠けていた。

「わあ」

彼はこういって公園に車を寄せた。

「きっと最後の一軒だろうな。」

バンガローから男が出てきて歩道を歩いて行った。

「予言するよ。来年かそこらにはこの家もなくなるだろうね。」

 

この地域はL.A.の中でも人口密度が高く、初期のベックの歌詞の中にもそのことが見て取れる。幼い彼はスペイン語を習得しようとしていた。しかしこのことから学校で激しいいじめにあいやめたという。

「やつらヒステリックに叫ぶんだ。このグエロは誰だ?って。」

「だからやめちゃった。」

2005年に”グエロ”というタイトルのアルバムを発売する。グエロはメキシコ系アメリカ人が使うスラングで”雪のように白い肌”とか”金髪”とかいう意味である。”Que onda Guero"はざっくりいうと”なにしてんだこの白人野郎”という意味になる。ダストブラザーズと共作した本作で彼はかつての近所の光景を甦らせた。”道端でバーガーキングの冠をかぶりながら寝ている/あいつらを起こすな(もっとビールを持ってこい)/鶏が鳴くまで(ほら鶏をみてみろ)”この歌詞はナンセンスでも隠喩でもない。

「ある朝道端で寝ている8人の男をとびこえてあるいたんだ。中にはバーガーキングの冠をつけている奴がいたんだ。」

 

 古い町並みの面影を残す景色もある。床屋や深夜営業のダイナーや花屋などだ。

「店の看板は全部手書きでまるでフォークアートみたいだった。トイレットペーパーの絵がかいてあったりね。それぞれの店が3つくらいの宣伝文句を書くんだ。”古家具”ドライクリーニング””課税”みたいにね。」

 

ベックは学校があまりに危険な場所になったため通うのをやめた。

「ある種のターゲットになったんだ。」

彼は俊足でどうすれば目につかなくなるのかを学んだ。

「パフォーミングアートの学校が街にできたから入学希望を出したけど落とされたんだ。」

少し間をおいて続ける。

「自分のしてきたことをよく言うのは嫌なんだ。学校は本当に大事だよ。そこにはすごくいい先生だっていただろうね。」

それまでベック一家は300×50平方フィートの2部屋のアパートに住んでいた。

「僕はダイニングテーブルの下で寝て弟はカウチで寝ていたよ。」

 

彼はバスに乗って中心街の中央図書館に通うようになった。楽譜ばかりを置いてある部屋があって、楽譜の読み方を独学で学び時にはアパートのロビーにあるピアノで演奏をするようになった。彼の音楽のテイストは町によって形作られたのだ。ランチェーラ{*メキシコの伝統音楽}、パンクとニューウェイブをラジオで、ヒップホップとはストリートで出会った。彼はサウスセントラルからバーモント通りをへてロスフェリッツに向かうバスまでの道のりを思い起こす。

「まさにこの場所でバスを待っていたよ。」

8番街とバーモント通の角を指さして彼は言う。

「バスに乗るとグランドマスターフラッシュだとか、当時のクールなラップ音楽がラジカセから流れていたんだ。」

 

彼はだんだんとアメリカ特有の音楽、特に1929年から35年の間のカントリーブルーズや貧乏な南部の音楽家の作ったアコースティックソングに興味を持つようになる。彼の4枚目のアルバム”one foot in the grave”では、1931年に録音されたデルタブルースの薄気味悪いレジェンドの一人であるスキップジェームズが作った数少ない曲の一つである”jesus is a mighty a good leader”をカバーしている。

「母の友達の友達の一人がギタリストでSP盤のレコードのコレクターだった。僕はただの小さな子供に過ぎなかったけど、彼は来るたびに空のカセットにSP盤を録音してくれたんだ。」

この男の助けで、ベックはミシシッピジョンハートだとかフレッドマクドウェルだとかいったブルースの曲をギターで弾けるようになった。

「ベックに音楽の才能があることは明らかだったよ。」

チャニングは言う。

「11歳か12歳の時4トラックのプロみたいな音楽を作ってたんだから。」

 

1986年、ベックが15歳の時中央図書館は火事にあう。

「燃え行く図書館を見つめていたのは子供時代の一番悲しい日の思い出だ。その時思ったんだ。L.A.を出ないとって。ここには何もなかった。コーヒーショップに行くお金もなくて、学校に行かなきゃって思った。」

 

ある昼下がり、バーモント通りに向かうバスでロサンゼルス市立大学を通り過ぎた。

「公立短期大学がどんなものかもわかっていなかった。でも本を持って歩く人たちをみて、クールだし安全に思えたんだ。」

彼は授業に忍び込み、文学課程の教師であった作家のオースティンシュトラウスと彼の妻で詩人であるワンダコールマンと知り合いになる。

「僕の書いたものをいくつか見せて、そしたら彼の授業に出ることを許してくれたんだ。次の年には偽のI.D.を手に入れた。18歳じゃないと入学できなかったから。僕はそのころ15か16歳で入学してからは天国にいるような気分だった。」

 

しかしだんだんと彼はまたL.A.で過ごす自分の将来について不満を募らせていった。

「自分がただなんだかシステムの割れ目の中にすべり落ちていくような感覚だった。」18歳になったとき、安価でアメリカのどこにでも行けると謳うグレイハウンドの広告を目にする。3日かけてバスでNYに到着した。彼の持ち物はウディガスリーみたいなギプソンのアコースティックギターと200ドルだけだった。寮や友達の家のカウチで寝泊りをし、写真ボックスでI.D.を作り劇場の案内係として働きだした。やがてダウンタウンのクラブでアコースティックソングのライブをし始めた。そのころのNYではアンチフォークのシーンが勃興していた。フォークリバイバル原理主義的要素を破壊しようとするムーブメントだった。ベックは小さなスタジオを借りようとしたが、家主が補償金を持って消えてしまったので、そこからはNYのヘルズキッチン簡易宿泊所で過ごすはめになった。

「裸電球と簡易ベッドだけの部屋だった。廊下が浸水して水浸しになったりしてね。まあ全くロマンティックではなかったな。」

「基本的には路上生活者みたいな暮らしをしていた。」と彼は付け加えた。

赤信号で止まった時に私は、自分の子供たちに自分とは全く違う生活をさせてあげられるのはどんな感じかをそっと尋ねた。

「とても誇らしい気分だよ。子供たちが全く違う人生を歩むことができるのは。」

「僕にとっては奇跡みたいなものだよ。」

 

 

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