奇妙なベックハンセンの新しいアルバムを聴きながらまだ消化せずにいるわけです。
なんでかこんな時代に今更モンティ・パイソンの空飛ぶサーカスをしこしこみております。
まだフールーでSNLを放送してくれていた頃、お気に入りのエピソードを何十回もみていたほど向こうのコメディが大好きでした。
インテリ気取りの日本人が海外のコメディには政治的な批判があり日本のコメディにはそれがないからだめだなどと言ったりして日本の芸人からバカにされたりという図式がありますが、海外のコメディだってそんな高尚にみせかけたものばかりではないわけで、私はどちらも好きなんですが。
モンティパイソンを見ていると政治的批判があるようにみえてそれ自体をバカにしているようなコントもあるしね。
たまにツイッターとかで、オリンピックの不手際の話とか桜を見る会とかの話ばかりしてる場合じゃないよ、今この瞬間もアマゾンが消えてるんだぜ理論を見かけますが、そんなことをみんなが言い出す3ヶ月前にはハサンミンハジを見とけば知ってたしねと鼻をかけるわけです。
プロのコメディをやる人たちは洋の東西を問わずシリアスなことをこともなげにおもしろく教えてくれるので、ツイッター言論者なんて足元にも及ばない。
‘それ、君もミンハジから知ったんでしょ?’
そういえば、ジョーカーについての非常にクレバーなブログがあった。
なにかを与えられるはずだったと思っている人間が暴走する物語と評していた。
これを軸に考えると世の中にこの映画に共鳴している人たちが続出というニュースがめちゃくちゃ笑えるものになる。
世界がだんだん終わって言ってるのは自明の事実だし、もう政府がいう“成長”なんて信じている人はいない時代だと思う。
でもそうじゃないからいろんな国で極右政党が出てきたりするんだろうか。
なにかを与えられるべき(自分の能力は傍に置いておいて)という人が増えているのだとすれば、世界を終わらせているのは間違いなく私たちなのでクリアカットにものごとを考えることができる。
私たちの業界にもこれだけのことができる人材をこんなことで、こんな値段で消費しているという論調がある。
もちろんそれが正しいこともある。
全体的にいうと、私たちはそれ以外の日本国民から消費され尽くされる業種ではあると思う。
当たり前にあり、与えられることが当然だと思われている。
全力をつくせと言われるたびに、言われなくてもいつでも全力であると頭の中に浮かぶ。
カスタマーが満足している時は、大変ですねといわれ、少しでも意に添えないと、全力をつくせである。
どの業種でもそうか。
でも私たちはこんなことをしないと日銭を稼げない程度の才能しかなかったんだからしょうがない。
国が私たちを持続可能な“サステナブルな”システムにおいてくれなかったんだからしょうがない。
つぶれるまでやるだけだ。
服飾業界でサステナブルという言葉が一人歩きしていることをハサンが暴いていることが非常によかった。
フェイクファーや本革の服飾品をもたないこととサステナビリティはまったく関係ない。雑誌の編集者やまじでそれを信じているインフルエンサーは服飾業界の後ろにいる企業に騙されているのか、もしくは消費者を一緒になって騙そうとしているだけでしょ。
サステナビリティと動物愛護は同義じゃない。
アマゾンを食いつぶしているのは牛だぜ。
(全部ハサンの動画をみて知っている)
完全にシラフ