肥大化した自尊心とロマンティシズムが膨らんだ結果、私が憧れるのは帝政末期のロシア貴族の生活である。
まじでドフトエフスキー信者なのである・。
仕事をしているのかい、していないのかいみたいな生活からなんだか細かいお金の計算をしながらも見栄を張りつつ、芸術を愛でながら暮らす生活をしたいのである。
お城みたいな家に住んで、広大な人が綺麗にしてくれる庭を散歩しながら、夜にはウォトカを飲みながらポーカーに勤しみたいのだ。
いつのまにか浮浪者が参加したりして。その浮浪者が翌日の朝には橋のそばでは凍っているようなロシア的世界。
あああ、ヒトラーがキリストになるには老婆を殺すしかなかったと言った人は誰だったか。。。
小さな1ldkのしょぼい家に住みながら、目を瞑れば城に住む自分の姿を想像している。
そして死ぬ前には福音書売りになって湖のそばで死んでいくのだ。
ところでここ一年わたしの心を引きつけて止まなかったルポールのドラァグレースについてだ。
s11について私が全然心を奪われていないと書いたのは先日の通りである。
これは私が今日初めて知ったブログ機能なので貼り付けてみただけ。
私がドラァグに期待するのはもうそのファッション性である。非日常と確固たる意志。だからなんだかキラキラする衣装を着るだけのパジェント系はよっぽどキャラが立ってない限り興味がないのである。
今回私が全然夢中になれなかった一つの理由として、全然ランウェイが適当だったからである。過去シーズンではもうそれこそアイコニックなランウェイルックを上位、下位関わらず1エピソード1人は披露していたはずなのに、今シーズンは全くである。息を呑むような衣装が少なかった。
ランウェイ評価の一番高かったブルックリンも所詮は誰かの模倣でしかなかった。
それほどのバリエーションがないのであれば、似通ったものが出てきてしまうのも仕方がないのかもしれない。
今回のグランドフィナーレでも、番組知名度が上がったからこそお金がかけられたんだろうけれども、そのせいで良さが失われたという感も否めなかった。
今までであれば時間をかけていたであろう、過去シーズンのクイーンたちの登場シーンもおざなりになっていたのも残念なポイントだった。
フォーカスしても多くのクィーンたちが老けているのも感慨深いポイントだった。
アレクシスマテオと、ココモントリース、パンドラブロックの変貌に私はびっくりしたし、他にも整形でやばいクィーンがいた。
その中でラジャのあの一瞬での存在感に圧倒された。
さすがラジャ。圧倒的な余裕の一撃である。
ちなみにディフェンディングクィーンのアクエリアの衣装はらしくなくオシャレでもなく、s7で酷評されたケネディーの不死鳥ルックにそっくりで呆れ返ったぜ。
あれだけの数のクイーンが登場したんだから、時間かけてもいいじゃない。s11の脱落クイーンたちももうちょっとフォーカスしてやれよ、衣装すらちゃんとみられんやったやん。
むしろ大衆のパッケージに迎合していくことで失われていくものもあるのだと、悲しみを覚えずにはいられなかった。
失われゆく時代に対する渇望がある。
丸谷才一の本を読んだ後だからそんな気分なだけ。
さよなら、世界