drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

心ゆくまでドラァグしようぜ!

土曜日にプーシキン展を見に行った。

絵を目にするとなんでもいいから喋らずにはいられなくなるおばさんとおじさんなんなの。

藤田嗣治展見に行って、あのハンドバッグに似たの私持ってると行ったおばさんのこと今だに思い出します。

何かを喋らせずにいられなくするのも絵の力ということでお後が宜しい様で。

なんかよくわからんパリの風景画を見るよりは、常設の現代アートの方が楽しいね。

 

現代アートに文句をつけるのはネットの世界で流行って、日常会話でも物知り顔でされるようになって、今や消費し尽くされて誰もそんな話しないけれど、馬鹿げてるよね。

現代アートを意味わからんという君は、まさに同じその人である君は14世紀の宗教画をキリスト教のなんたるかも知らずに理解できるというのかね。

絵をわかる、わからんとは。

君はそういうことで逆ふりのわかったふりをしているのでしょう。

なんとなく視覚で消費して、面白いか好きか楽しいか嫌いか鼻にもかけないかそんなものでいいじゃないの。芸術なんて消費されるだけの大したものじゃないんだから。消費されてされてされて世紀を超えていくだけ。

ゾゾタウンが投機のために買うじゃん。彼のその必死なお金って多分後長くて50年くらいしか彼を満足させないじゃん。でも絵それ自体はそんな彼のさもしい意志を超えたところで、いいものであれば何百年も永らえるじゃん。

今の時代に大きな顔をしてしたり顔で語ってるゾゾタウンの名前は後世に残らないけど、バスキアの絵はその絵に相応の価値があれば残って行くものね。

芸術に価値があるのは人間そのものを超える価値を持ちうるってところだと私は信じておるのです。

 

ゾゾタウンが芸術家を月に連れて行ってそこから生まれる反応としての作品を見たいとのたまっておるけれども、しかしてそうやってなんだか人から一方的に与えられたものからは大した作品は生まれないのだよきっと。写生大会じゃないんだから。

結局みんな大好きモネのみんな大好きな睡蓮だって、あくほど見つめた風景からこっちが飽きるほど執拗に生み出されたものだし。

 

でも、こんなことを言ってわからないね。

そこから21世紀を代表する芸術が生まれるかもしれないし。

 

倉敷のしけたドトールでザスミスの曲が流れてて、上海オープンのゲーム間の音楽でもザスミスが流れてた。中国人はそれで大合唱してたんだよ。

大陸の人はヨーロッパと地続きの感覚を持っているのかな。

フェデラーモリッシーが似ているからテニスファンはザスミスの5曲くらい代表的な曲は歌えなきゃダメなのかもね。

 

日本人に生まれたからソリダリティーがないんだよね。

ソリダリティーっていう感覚は日本人からいちばん遠いものだと思う。

そういう諦念をずっと持ちながら暮らしているわけですが、その諦めって憧れと合わせ鏡なわけです。

ほんで持ってNetflixでやっと配信が始まったルポールのドラァグレースシーズン10を見たわけです。ドラァグをやってある意味社会のマイノリティで生きていてもそこですべての人とは団結はできないわけです。

もうそんな時代じゃないからね。一致して戦う大きな敵は何となくいない状況なんでしょう。ある程度の市民権を得ているしね。

それでもドラァグの世界に生きる彼女たちには、状況によって変わるにせよ、なんらかの孤独と排除されてきたという感覚は一致しているんでしょう、きっと。社会のマイノリティであるという染み付いて消えない感覚。

私はドラァグじゃないけれど、その気持ちがわかる。痛いほどわかる。

頭の後ろの冷ややかな部分に理解されない自分とじっとりした死への切望がある。

 

今シーズンではキャメロンマイケルズが大好きだったので、ep10くらいの”アメリカン”のところばっかり何回も見てる。

そこでもなんだか見せ場が少なくてわりを食ってる感じのあるキャメロンが歌う歌詞が陳腐だけど真に迫る感じでいいんです。

社会から排除された別の場所でまた独自の社会を形作ってそこでもまた傷つきうる彼女たちの、なんらかの形で社会と関わろうとする姿勢は涙が出るし、その頂点にいるルポールに対する尊敬がなんか単純にじんと来るんだよな。

 

信州オラホビール ペールエール350 *2