drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

ポリティカル・コレクトネスに中指突き立てろ

PC、PCと叫ばれて久しい世の中です。

そんな中ポリティカルインコレクトネスをつらぬくモンティ・パイソンをひたすら見ている。

通勤帰宅の際にはalways look on a bright side of lifeをリピート再生している始末である。

ライフオブブライアンのあのめちゃくちゃなエンディングでこの底抜けに明るい曲をエリック・アイドルはなんだか怒りながら歌っているのだ。

 

人生は笑いで死はジョークに過ぎない

とかね。

最後の笑いはお前にかかっているんだぞ

とかね。

 

そんな感じで私の日常はモンティ・パイソンベック・ハンセンハイパースペースに支配されている。

 

 

<blockquote class="twitter-tweet"><p lang="ja" dir="ltr">大昔に私が愛媛に住んでいたとき、なんとなしにクラスヌ愛媛に来てくれよとつぶやいたら、田中宗一郎氏がリプをくれてその何ヶ月後かに本当に愛媛でイベントをやってくれたということを思い出した。地方でのこんなイベントがどれだけ貴重か。。。! <a href="https://t.co/0uw32PW7J0">https://t.co/0uw32PW7J0

— でゅーーん (@seemore__glass) <a href="https://twitter.com/seemore__glass/status/1201826770606948352?ref_src=twsrc%5Etfw">December 3, 2019</a></blockquote> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

 

 

年末の振り返りの季節についったタイムラインに田中宗一郎氏が松山に行くぜという喜ばしい記事が流れてきたので 言わせてほしい。

 

 

私の心のオールタイム・ベスト・ミュージシャンは

ピート・タウンゼント

ベック・ハンセン

ジェームズ・マーフィー

の三人なのですが、それとは別にどんなふうに音楽を聞いて何を考えるべきなのかを教えてくれたのは田中宗一郎である。

クアドロフィニアのライナーを書いていることから氏の存在を知り、アークティック・モンキーズが華々しくデビューをした年からかじりつくようにこの雑誌を読んできた。

音楽について話せる人は周りにいなかったので、スヌーザーを読みながらそこにかかれていることと勝手に議論しながら暮らしてきた。

そんな暗い学生だったわけです。

 

上記のツイートはあまりに私の思い出に強調をおいたものなので気恥ずかしいけれども、たまたま松山に来る企画が立ち上がってたのかもしれないけれど。

それでも、こんな末端のユーザーの声も拾ってくれるのかよという、もう一生ついてくぜ的な感慨を私に抱かせたものである。

田中宗一郎氏は先に上げたように、音楽に関しては私の4大師匠である。

”すべてブルーにこんがらがった部屋で”の中で、氏はクラッシュへの信頼を語っている。話をしたこともない存在だが、クラッシュならばこんな状況をなんとかしてくれるという夢をみたみたいな話だったと思う。

 

松山の片田舎に来てくれるとなったときの氏は私にとってのクラッシュだった、たしかに。

 

ついった初期の、ほのぼのした時代のお話である。

 

松山みたいな地方都市って暮らすのには心地が良いけれど、文化的に閉塞感があるのはたしかである。

私は大阪から出てきたので、あのエリアの狭さとコミュニティの中でお互いを見張り合ってる現象には最後まで馴染めなかった。

そこで暮らしながら、都会に行きたいという人たちのことを私は密かに馬鹿にしていた。

彼らが夢見る都会で手にすることができるいろんなものって、地方都市でも手に入る程度の便利さなのである、と思っていた。

都会は便利だから田舎には住めないという人たちのことも私は馬鹿にしていた。

彼らが都会で享受する便利さとかアクセスしているものって、地方都市でも足を伸ばせばかんたんに手に入るものだからだ。

 

地方都市のもう致命的なところって文化へのアクセスができないところである。

(でも、多くの人はそれを必要としていないから、大丈夫)

 

そんな中、あの時代に多分2012年とかだったと思う、明らかに音楽文化の少ない地にクラスヌが来るという出来事は大きなことだった、少なくとも私にとっては。

 

 

大阪に戻って数年たつけれど、年々ここでも音楽にアクセスすることが難しくなっていると感じる。

2016年はまだましだった。だんだんずっと悪くなってきている。

世の中の暗いムードと斜陽に向かっていく社会を反映しているのかもしれない。

じりじりとした消耗戦に入っているのだろう。

 

この間久しぶりにライブに行った。

flake recordでのインストアライブである。

楽しかったけれど今これをお金をとってもっと広い会場ですることができないのが大阪の現状なのかという悲しい気持ちにもなる。

 

最後は明るい話で締めくくろう。

ベック・ハンセンの新しいアルバム発売に合わせてthe New Yorkerに彼の人生を振り返る記事が出ていた。

そこには彼が離婚をしたこと、サイエントロジーから離れたことがさり気なく書いてあった。

redditではその部分が大きく取り上げられている。

これで彼のファンだと大手を振って言えるね、とか。

 

 

彼の音楽と音楽に対する姿勢はそんなものを超えて一貫した地平を見据えている。

 

gueroとかthe informationの頃の彼に対する世間の冷たい態度を覚えている。

odelayからmutationsを経てmidnite vulturesに至ったときの世間のぞっとするような物言いは雑誌で読んだことがある。

ロッキング・オンではその時代のことを”天高く飛んでいたベック・ハンセンが停滞し、その後翼をもがれて地に落ちた”みたいに書いていた。

(実際にはmidnite vulruresはそんな評価には値しない、素晴らしいレコードである。)

 

彼は25年位音楽を作り続けている、そのうち15年位私は彼の音楽をリアルタイムで聞いている。人生の半分以上だ。

時代は変わった、音楽の中でもたくさんの人が死んで、スターになりまた消えていった。多くのバンドが音楽を作らなくなったり、解散したりした。

 

ベック・ハンセンだけは変わらなかった。

相変わらずみんなに真剣に音楽に向き合えと言い続け、もっと映画を見ろと言い続けている。

 

”僕にとっては宗教より音楽のほうが大切だった。”

 

そうだろうね、でなきゃ彼は今頃人殺しになっているはずだから。

このクリシェだねと言いたくなるような一言を見ただけで私は嬉しい。

 

 

 

 

by 箕面 スタウトビール *2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

突然はじまるスペイン宗教裁判

奇妙なベックハンセンの新しいアルバムを聴きながらまだ消化せずにいるわけです。

 

なんでかこんな時代に今更モンティ・パイソンの空飛ぶサーカスをしこしこみております。

まだフールーでSNLを放送してくれていた頃、お気に入りのエピソードを何十回もみていたほど向こうのコメディが大好きでした。

 

 

インテリ気取りの日本人が海外のコメディには政治的な批判があり日本のコメディにはそれがないからだめだなどと言ったりして日本の芸人からバカにされたりという図式がありますが、海外のコメディだってそんな高尚にみせかけたものばかりではないわけで、私はどちらも好きなんですが。

モンティパイソンを見ていると政治的批判があるようにみえてそれ自体をバカにしているようなコントもあるしね。

 

 

たまにツイッターとかで、オリンピックの不手際の話とか桜を見る会とかの話ばかりしてる場合じゃないよ、今この瞬間もアマゾンが消えてるんだぜ理論を見かけますが、そんなことをみんなが言い出す3ヶ月前にはハサンミンハジを見とけば知ってたしねと鼻をかけるわけです。

プロのコメディをやる人たちは洋の東西を問わずシリアスなことをこともなげにおもしろく教えてくれるので、ツイッター言論者なんて足元にも及ばない。

 

‘それ、君もミンハジから知ったんでしょ?’

 

 

 

そういえば、ジョーカーについての非常にクレバーなブログがあった。

なにかを与えられるはずだったと思っている人間が暴走する物語と評していた。

これを軸に考えると世の中にこの映画に共鳴している人たちが続出というニュースがめちゃくちゃ笑えるものになる。

 

世界がだんだん終わって言ってるのは自明の事実だし、もう政府がいう“成長”なんて信じている人はいない時代だと思う。

でもそうじゃないからいろんな国で極右政党が出てきたりするんだろうか。

 

なにかを与えられるべき(自分の能力は傍に置いておいて)という人が増えているのだとすれば、世界を終わらせているのは間違いなく私たちなのでクリアカットにものごとを考えることができる。

 

私たちの業界にもこれだけのことができる人材をこんなことで、こんな値段で消費しているという論調がある。

もちろんそれが正しいこともある。

全体的にいうと、私たちはそれ以外の日本国民から消費され尽くされる業種ではあると思う。

当たり前にあり、与えられることが当然だと思われている。

全力をつくせと言われるたびに、言われなくてもいつでも全力であると頭の中に浮かぶ。

 カスタマーが満足している時は、大変ですねといわれ、少しでも意に添えないと、全力をつくせである。

 

どの業種でもそうか。

 

でも私たちはこんなことをしないと日銭を稼げない程度の才能しかなかったんだからしょうがない。

国が私たちを持続可能な“サステナブルな”システムにおいてくれなかったんだからしょうがない。

つぶれるまでやるだけだ。

 

 

 

服飾業界でサステナブルという言葉が一人歩きしていることをハサンが暴いていることが非常によかった。

 フェイクファーや本革の服飾品をもたないこととサステナビリティはまったく関係ない。雑誌の編集者やまじでそれを信じているインフルエンサーは服飾業界の後ろにいる企業に騙されているのか、もしくは消費者を一緒になって騙そうとしているだけでしょ。

 

サステナビリティと動物愛護は同義じゃない。

アマゾンを食いつぶしているのは牛だぜ。

(全部ハサンの動画をみて知っている)

 

完全にシラフ

夏が終わり、ボン・イヴェールの季節がはじまる

あなたはもう聞きましたか、この時代におけるボン・イヴェールの新作を。

rot bart barronのクマ好きの人が書いたボン・イヴェール音楽史を併せて読むのがおすすめです。

この広いネットの海を捜索すればすぐにヒットするはず。

 

抑えた筆致で冷静ながらも思いの伝わる文章だったので、そういう物に触れると人は自然と自分も何かを言えるような気がして、このものぐさブログを更新しています。

 

新作について何かを話せるほどi,iを聴き込んでいないのでこの記事ではアルバムについては何も書かない。いつものごとくタイトルだけの話です。

 

 

音楽について書くのはいつも難しい。

私は昔、中学生の頃田中宗一郎に心酔していたので当然音楽ライターを志していた。

私はなんの才覚もないけれど、人と自分の能力の限界を見極めるのだけは得意であった。つまり、必要以上の努力をしたくないので、才覚以上の努力が必要となる道を選ぶという苦行を避けて通る人生を選んだ。

 

田中宗一郎の素晴らしいところは、博識であることはもちろん、他者の目を徹底的に意識している理性的な文章をかけるところである、世間ではどうもそう評価されていないけれど(感情的だという彼に対する批評を目にしたことがある)。アートディレクション的アプローチをとるライターである。

私の敬愛するブレイディみかこは徹底的なリサーチと実地に沿った批評をするのが得意だし、最近話題の辰巳JUNK氏はオタク的アプローチからの批評を得意としている。ような気がする。

 

つまり言いたいこととしては、ライターという職業は少なくともプロである以上の人は自分のスタイルを意識してその仕事を徹底している。メジャーな場で尊敬のできる仕事をする人はおしなべてそうであろう。理性的なのである。

 

私は脳がいつもこんがらがっているので、混乱した文章しかかけない。自分の中で考えがまとまっていないし、リサーチして極めていくという意志にかけている。

ネット上でみかける一般人の文章の域をでない。

高校生になった私はなんとも利口であったので自分の限界を見極めライターという道を諦めた。雑誌文化が衰退していくことも目に見えていたし。

 

私の人生を変えたピートタウンゼントにもベック・ハンセンにも会うことのない人生を送ることを涙ながら選んだのだ。

 

 

時代は流れウェブメディアが勃興する時代が訪れた。

猫も杓子もライターを名乗れる時代が来たのである。

 

私はオタクであるので、素人がネットで仕事を手にする姿を目にしたのはイラストレーターの分野からである。

趣味で絵を書いていた人がネット経由で仕事を頼まれ絵を書き買い叩かれて文句を言うみたいなやりとりはよくみかける。

 

その後ツイッターを注意深くおっていくと音楽界隈でも同じことが起きている事に気づいた。

趣味で音楽についてツイッターで呟いていた人が、ウェブメディアで依頼されてライターとして文章を書いている。

ある種の音楽についてアクティブに語り合ったり、ライブに足繁く通う人たちのコミュニティが非常に小さくて閉鎖的であることは知っていたが、その延長で音楽の批評が始まったのだ。

個人ブログでの音楽批評は伝統的なフォーマットである。

しかし、たぶん金銭が発生しライターと名乗りながらその文章で誰かを啓蒙しているのである。

そんなことは昔からどこでもあったのだろう。どこからがプロで、どこからがアマチュアなのかがはっきりしない業界だから。

 

私が言いたいのは、そんなコミュニティに属してライターをしている人が、ツイッタの自分でのつぶやきだかリツイートだかで、音楽についてネガティブな発言をするのをやめよう、と言っていたことにびっくりしたからである。

 

インターネット文化の罪は人々をinclusionとdiversityからexclusionとuniformityへとシフトさせたことである。

感動の共有だけを彼らは強要しているのか?

 

音楽はお花畑ではない、ライブのたびに界隈の人がリツイートしまくる”幸せな空間”とか”最高の体験”とかに私はうんざりしている。その延長線でのライティングしか認められない場が誕生している。

彼らの世界では、音楽に対する表現は称賛しか存在しないのであろうか。

 

 

コミュニティが狭いと、その中で同じ動きを取るしかなくなるがゆえにexclusionとuniformityが加速するのだ。

 

こんな音楽を作ってるくらいならやめたほうがましでしょ、っていうものは世の中に沢山ある。

世の中をバカにさせる音楽だって確かにある。

批評ってそういうもんでしょ。

はっきりいうと、意志もビジョンもないただ感動の共有だけを目的とした文章が世の中に増えている。これが識者の見解だよみたいな顔をして、ネットの海でプロフェッショナルな商品と同じ棚に置かれているのだ。

 

個人的なまた違う話になるけれども、私がライブに行かなくなった理由を記してこの批判的ブログの締めとする。

 

初めて行ったライブは2007年のベックのthe informationツアー大阪公演である。

パペットが舞台上で踊り、食器を使って演奏をしていたベックらしいアプローチでの当時の音楽への批判が詰まった演出であった。

ライブのもつ独特の熱と空間と人々が作るいわゆる一期一会的感覚が大好きになった。

踊ってばかりの国のシャングリラは最高だった。

まだ髪の毛が長かった頃のセイント・ヴィンセントが30人くらいしか客がいないサマソニでダイブしたのも覚えてる。

 

ライブストリーミングでのフェスも満喫した。

大学の授業をサボって暗くした部屋でイケアのミラーボールをつけてひとりでコーチェラを見ながら踊り狂った。

社会人になってからは行けるライブは対して知らないアーティストでも当日券を買ってバカみたいに行った。

ボン・イヴェールのライブも派手ではないし特殊な演出も特筆すべき出来事はなかったけど、素晴らしい音楽がそこにあった。

すべて、覚えている。

つまらないものもあった。

全部思い出せる。

 

世間とのズレに気づいて楽しめなくなったのは、ベルアンドセバスチャンの来日のときである。

コーチェラかグラストンベリーで彼らの観客を次々舞台に上がらせて一緒に踊るハッピーフィーリングあふれるライブパフォーマンスをみて期待に胸を膨らませて行った。

大阪でもライブ終盤になると次々観客が舞台にあがり、一緒に踊っていた。

ツイッターのタイムラインは予想通り、舞台に上がって一緒に踊ったとか、こんな幸せなライブないよというコメントに溢れかえっていた。

 

ああ、これは彼らのいつからか知らないけれど舞台をやるときのお作法なんだなと気づいた。もう形骸化したパフォーマンスだった。

私にとって感動できたその演出は、ライブストリーミングを通してみたその一回だけだった。

 

ブラーの再結成ライブもいろんな国で何度も行われた。

でも本当に感動的であったのは、グラストンベリーの最初の一回だけだった。映像化したハイドパークのやつじゃない。

 

ライブ表現は、やる方と観る方になんだか強烈な意志がないと陳腐なものにすぐなってしまう。

でもそれは特殊空間でマスクして表現されがちだ。

音楽以上にこれはくそだったって言えない。

 

今でもベック・ハンセンの2009年のツアー大阪公演はくそだった。

満月様顔貌でバックコーラスの女の子より声が出ていなかった彼を思い出す。ライブ前にマジックをやっていたあの公演のこと覚えている人はまだいるだろうか。

 

あらゆる界隈で、その界隈の意志に沿わない人が追い出されている。

ネットの世界はそういう傾向を作り出した。

私の大好きだった音楽の世界でもそうである。ポジティブでハッピーなもののみかたしか受け入れられない時代である。

 

でもそうじゃない、アンガーだけがいつでも時代を動かしてきた。そう私は信じている。

 

完全にしらふ 

同性婚?もうそんなの両手を上げてhell yesだよ

選挙の日です。

それぞれの立場において論点が違うのは当たり前なので、増税を気にする人もいれば、子供政策を気にする人もいる、そりゃ立場によりけりなのでそれぞれが選んでいくだけの話です。

 

少子高齢化という言葉があるわけで、それを是正するために産めよ育てよと言われるわけです。

まだ日本は多分大丈夫なので(ゲシュタボがかろうじていない時代だから、国賊といわれても逮捕されない時代だから)私は言わせてもらうと、日本の存続のために産んだり育てたりする義務は私は負ってないぜと思うのである。

つまり、出生率が下がって日本が滅びようとどうでもいいのである。

それって個人に責任を負わせる問題なわけ?

子供を産み育てるという気にもならないように社会がゆっくりとシフトしただけの話でしょ。

 

その方向に向かわせたのは多分に目に見えない民意でしょ。

世相を反映した上の。

こんな時代に子供を産みたいって思わないって。

 

はっきり言って、私はいままでの数十年間マイノリティとして生きてきたという意識がある。LGBTだとか障害者だとかはっきりとレーベルできないマイノリティだ。

この社会から見向きもされない、すくい上げられることのないマイノリティだという自負がある。社会と繋がれないという意識がある。

選挙前に各政党の政策を見るじゃん。

そこでびっくりするのだけれど、現政権ってまじでY染色体の維持に必死なんだね。XとYの差異にどうしてそんなにムキになっているのこんな時代に。

夫婦別姓も認めない、同性愛婚も認めないし、びっくりするけど女系天皇も認めないしなんか憲法も改正しちゃうんでしょ。

そんな政党を支持してるやつってまじでどんな気持ちでいろんな文化をこの時代において享受してんの。

そんなやつがまつこちゃんを好きっていったり、わけもわからずクィアアイみたりしてんだろな。

そこまでして維持したい価値観があるのかすげえな。

 

こんな時代に。

美しい国日本というもう6年位前に君らが立ち上げたプロバガンダがあるわけで、その中身と実質のなさに私はいまだに納得が行かないのだけれど、それが体現するのって上記のような政策なのかな?

 

私は日本人だし、日本の好きなところはいっぱいある。

でも君らのいう素晴らしき国にっぽんとは絶対違うぜ。

私はそれと同時に日本にうまれたことでこの身から絶対切り離せない孤独をずっと抱えて生きているもの。

 

私の思う日本の良さは、大局的に見ればどんな文化とも寝ちゃうビッチさにある。

ふはは。

入ってきた文化を柔らかく受け入れて自分のものにして咀嚼しちゃうのである。母系文化だね。うやむやに取り入れまるでそれがもともと自分のものだったような顔をする。

自分の半径500mのことに美しさを見出すのが得意。その表現はどの文化をも凌駕する域だと思う。

でも局所的な意固地さを持ってグローバルな考え方ができないよね。

同調圧力を持ってしばしば違う考え方を排除する、でも権力主義者でもあるからそれが多くのものに受け入れられたとしれば受け入れる。

私が好きな日本は桜でも着物でもない、それらをレプリゼントするものじゃ全然ない。

 

なんとなく、選挙の人芸人のうちわの醜聞がめについたから。

 

世論よ、手のひらをくるくる返す世論なんかと付き合わなきゃだめな芸能人も大変だね。

どんどん、何をせめてたのか世の中がわからなくなる仕組みが透けて見えた。

よしもとだって松本だって、やくざと同じことをやっているように私には見えたよ。

 

松本をヒーローと持ち上げる人たちが私には理解出来ない。

彼は懐柔しようとしているだけだよ。生放送をみた?会社の体制が間違っているのは確かなのに、でも彼は会社の側に立つことをやめようとしなかったじゃない。

りょう君のやった会見はインターネット時代の私達が手に入れたme too運動の形だったのに。それにみんなが並ぶんじゃなくて、また会社側にとりこんで、松本部署とかいうところで飼い殺しにするという提案だったんだぜ、松本が言ったのは。

会社のやっていることがパワハラだと言うこともできない。

それは間違いなくそっち側に松本がいるという証明なのに。

ヒーローがいてスッキリ何もかもが解決する社会構造じゃなにもかもがないのに、そう合ってほしいと世間が望むならもうどうだっていい。

ツイッターをみていると知性のなさにうんざりする。

もうさよなら。

 

by アシードアスターレモン*3

心の弱さと頭の弱さを自分ではfully realizedだから許して、お願い

根本的には一日中心地よいベッドで過ごしてなにもせずに暮らしていければと思うほど自堕落な人生を送りたいと願っている。

なのに、なんとなく生きて行かなきゃダメだから社会に出た途端、不特定多数の人とコミュニケイトさせられるし決まった時間に職場に行かなきゃダメな人生を送っている。

 

したいかもわからない結婚が私の心を暗くさせる。

 

婚活って今の時代どのツールを使ったって自己否定される作業の繰り返しである。

 

わたしが男ウケしないことなんてもう十二分に理解しながら世の中に立ち向かっていくわけである。

あああ、こんなにも選ばれない存在なんだなと思いながら毎日を過ごす。

誰からも必要とされず、望まれていないわけである。

 

30万くらいの費用を払って、結婚相談所とかいう会員を限定するだけの出会い系アプリに手を出してみてその気持ちを新たにした。

婚活ブログをみると皆だれかとは定期的にお見合い成立しててすごいな、と思うわけです。

そんなに成立しないよ?

自分が社会的選ばれない側の人間だと思って生きていくのは辛い。

だからこの高いお金をドブに捨てるようなアプリを私は酔っ払った時にしか開くことができない。

友情結婚も、やりとりの面倒くささと、一生だれともセックスせずにくらしていくのかという事実に耐えられず中途半端にストップしてしまった。

 

私はどうしようもなくヘテロなので、好きじゃない人との子供を人工授精で作って自分のキャリアをうっちゃってでも育てていく自身と何かを持てないのだ。

 

つながりたいのと番いたいのは違うよねと思うけれどそれをだれもわかってくれない。

わかってほしいのかもわからない。

自分が正当であることを証明する必要なんてちっともないと思うのに。

 

なんて風に世間に言い訳をしないと私はなんとなく居心地が悪くて生きていけないのだ。

本当に、部屋の隅でじっとすごしてたいのに。

という思いを多分たちきって、飛躍していくベックハンセンを私は偉いと思います。

サイエントロジーだと罵倒されながらも、定期的に傑作を世の中に送り出し、だれもそのカリスマ性を認めてくれなくても(例えば彼は同時代のトムヨークやノエルギャラガーのようにファナティックなファンはつかない、神秘性がないからである。)粛々と音楽を作り続ける彼を私は本当に尊敬している。

アンダーグラウンド周辺の音楽について語り合える相手を人を殺してもいいからというほど希求していた彼は、現代において唯一真摯に時代と音楽と向き合う音楽家の1人となった。

流動的であり、誰かに理解されることを望んでいないようにも見える。

しかしながら時代と寝ることを厭わない。

ベックハンセン、私だってそんな風になりたかっただけなのに。

私は今も昔も選ばれない側の人間。

もう悲しくもない。

 

by アシードアスター  シチリアレモン、シークわぁさー

ヘリコプターが僕の頭上で回っている

今週のお題「わたしの好きな歌」

 

 

冠婚葬祭が嫌いだ。でも私の人生で冠婚葬祭について決めていることが2つある。

葬式に流す曲と、結婚式に流す曲だ。

実際に執り行われるかは別にして。

 

 

  1.  葬式に流す曲
  2. 結婚式に流す曲
  3. 人生には音楽が必要、少なくとも私の場合には 

 

  1.  葬式に流す曲 続きを読む

everybody needs Todd Chabez

今更ながらボージャック・ホースマンを見始めています。S1E1で大笑いしたあとなんだかわからないままほろほろ泣かされて、S5まで一気に見て後最終エピソードを残すのみ。

 

アニメーションでしか描けないアメリカ現代批評であるわけですが、S5は最も現実世界の問題とクロスしている。

 

自分がくだらなくてどうしようもない存在だと理解しながら、その肥大した自己愛で自分だけを許して生きていくボージャック。

視聴者はボージャックが愛すべきどうしようもない主人公なのか、#Me tooムーブメントでまさに私達がやり玉に挙げてきた憎むべきマジョリティの白人男性像なのかわからなくなる。

 

薬を過剰摂取し現実かドラマかわからなくなるエピソードは見ていて苦しくなる。S1からのユーモアは配されているけれど、息苦しさが蔓延している。

 

ボージャック・ホースマンは突拍子もないフィクションの世界を舞台でしか描くことができないくらい、暗い話である。

 

もちろんそこで語られる物語だけでなく、アニメーション表現としてもものすごく良くできている。

シュガーマンの別荘に訪れたS4E2は特筆すべきできであろう。

過去と現在を重ね合わせてかたるボージャックの仄暗い血脈。

 

ボージャックがどうしようもないのは親のせいだよ、とS1で言っていたかもしれない人々を黙らせるエピソードだ。

ボージャックがどうしようもないのは母親のせいだけど、母親がどうしようもないのはシュガーマンのせいだから。

これを永遠に繰り返して、どうしようもないことの責任を人のせいにし続けるのだ、人間は。

 

ボージャックの罪はそれを自分で断ち切れないどうしようもない弱さにある。

回想にでてくるボージャックの父は、今のボージャックにそっくりだ。

 

どうしようもないボージャックに自分を重ねて慰めるのはおわりだね、ダイアン。

 

by 完全にしらふ