今年は10年に一度のお祭りイヤーなので各社2010年代を振り返ったり、2019年単独で振り返ったりと忙しい。
2019年はまあ一般的な目線でいうとビリー・アイリッシュの圧勝である。
大局的に言うと、まあそれしかなかった年とも言える。
個人的に言うとヴァンパイア・ウィーケンドも素晴らしかったし。。。。という感じではある。
およそ5年ぶりにロッキング・オンを購入した。
ベックの日本語で読めるインタビューを目当てにである。
大阪の大きな書店では軒並み売り切れており、なん店舗かを捜索し取り置きの末に手に入れた一冊である。
もちろん2019年ベスト・アルバム特集である。
そして恒例の、高齢者ばかりのったカレンダーがついてくる。
ロッキング・オンといえば、知ってるか知らないか知らないけれど、日本におけるたぶん一番売れてる、そして知られている洋楽を取り扱う雑誌である。
多分、前時代的な、私と同じ世代の人間であれば、雑誌をとおしてまず第一に音楽についての先入観やものの見方を学んできたと思う。
何も知らない人にとっての入り口となるツールであった。
洋楽が気になる、なんかクールだよね、でもよくわからないからまずはロッキング・オンに聞いてみよう!的な。
今の時代の子はそうじゃないと思うけれど、情報を手に入れることが難しかった時代はそういうことがあったと思う。
そんなロッキング・オンの年間ベストを見てみると頭を抱えざるを得ない。
時代を捉えたランキングじゃとてもじゃないけどない。しかも、雑誌としての主張もみえてこないのだ。
ラフ・トレードのベスト・アルバムは時代を捉えてはいない、でもそりゃラフ・トレードはこういうスタンスだよねって感じである。
ピッチフォークとNMEの差異だってわかる。
ロッキンオンはもうだめだめなのだ。
90年代までに形作られた一つの定型的評価を今の時代でもトレースしているに過ぎないように見える。
そんなロッキング・オンですらビリー・アイリッシュを選ぶしかなかった現実はまさに彼女の圧勝を物語っているわけだが。
そのアルバムにつけられたコメントも思考停止した大人のコメントとしか言えないものである。
私に言わせると、彼女を現代の救世主のように捉えるメディアや大人こそがイルである。ビリー・アイリッシュとかグレタちゃんを持ち上げたり叩いたりして世の中のイル具合を理解していない大人って結構多いと思うのですがどうでしょう。
”若いのにこんなことを言うのってえらい”とか”目立ちたがりがこんなこといいやがって、叩いたろ”とか。
まるで自分がその問題と関係がないかのように、それに何らかの形でメンションする若い子に目配せしてみせるおっさんとかおばさんとかってまじで終わってないか?
同時代を生きているのであれば同等の責任でそれを背負ってみせるべきなのに。
若いのに偉いなあじゃない。
ベックの音楽を二項対立で語ってみせる浅はかさにもうんざりさせられる。
そしてredditでも散見された言葉ではあるが、第二のシーチェンジを望む声ってこの世でまじで一番不要なものではなかろうか。*1
音楽におけるジャーナリズムは日本においてどこで生き延びているのだろうか。
もちろんロッキンオンの年間ベストにおけるそれぞれのアルバムにつけられたコメント(もう評論とは呼ばない)は順位に関係なく書かれたものもあるだろう。特に15位以降においては順位は関係ない。非常に限られた文字数でうまく書かれたものだってある。
でももう大きな文脈の中ではそれは空虚に響くのみである。
音楽評論だけではない、評論はどこにむかっているのか。
私のこの文章はまったく評論ではない、そんなつもりで書いてはいない、でもそういうメンタリティーの文章が増えてあたかもそれが批評だとかなにかものを知っている人の文章として扱われがちなのではないか。こんな世の中では。
確かに無料で読める説得力と確かな知識に裏打ちされた文章もネットの海を探せば見つかる。
だがそれを手に入れるのには方法を知っていなければ難しい。
私がなにかの批評として最近評価できるのは書肆侃侃房によるアメリカ文学ポップコーンみたいなやつだけである。
文化は誰にでも望んで対価を払えばアクセス可能なものとなっている、ある程度は。
そこで理系の世界でいうとエキスパートオピニオンみたいなかなり信頼度の低いものが、エキスパートでもない人が語るそういったものが一人歩きしがちな世の中になっているんじゃないかと言ってみる。
でも振り返れば、語られる場所が変われば意見も随分変わるなと思い出しました。
その大昔ピート・ドハーティとケイト・モスがつきあってたころ、音楽好きからすれば色々言いたいこともあったろうに、ファッション雑誌からは一方的にピート・ドハーティの悪口ばかりかかれて嫌な気分になったこともある。
アレックス・ターナーと名前は忘れたけどただのインフルエンサーの女の子がつきあって、別れたときもファッション雑誌はアレックス・ターナーの偉大さを無視して女の子アゲの記事を書いていたことを思い出した。*2
エキスパートオピニオンってそんなもんなので、なんか誰かの言うことをたった一つの真実みたいに捉えるのってほんとに危険だし馬鹿げているのだ。
と思う。
私はそう思うけど、みんなどうなんでしょう。
まあ、ロッキング・オンは日本人を馬鹿にしてんじゃないのと思うので私は怒ってます。
まじで、かばいようもないでしょ、なにか擁護できる点があれば教えてほしい。
*1:シーチェンジとはベックが長年連れ添った彼女と別れた喪失感で作られたアルバムである。オディレイのあと、勝手にベックを落ちぶれたとみた批評家がベックの復活として神格化するアルバムである。シーチェンジが好き、というのと第二のシーチェンジを早く聞きたいな☆というのは全く別のものいいである。一方はまあそうかもねだが、もう一方はあまりに馬鹿げている。今になって第二のシーチェンジを望むという声が多く聞こえてくるのは、2019年にベックが長年連れ添った奥様と離婚したからである。つまり、音楽評論家を装って、公共の雑誌の場でベックの人生をいやしくもエンターテイメントの場として消費し、にやにやとつらいことがあったんだから次はそういうアルバムを作ってくれるよねとのたまっているのである。
*2:アレックス・ターナーは2008年の時点ではイギリス政府のホームページに国を代表するバンドとして挙げられていた。彼らがセカンド・アルバムを出した時点でである。大傑作、夜を走る王子ことAMが発売される随分前のことである。つまり客観的にみて、文化的にも歴史的に見ても時代に吹き飛ばされうるインフルエンサーと比べてアレックス・ターナーは大人物であった。しかし、ファッション雑誌系のセレブニュースはまじで狭い目線で書かれている事が多くアレックス・ターナーをどこぞの鼻くそ扱いしていたのである。そんな記事つけられたヤフーコメントはまたまた頭が痛くなるほどの低レベルなので一興。