drunken J**** in a motel room

文字通り酔っ払った時に書いてるブログ

フェミニズムを掲げたディオールに女の私は背を向けた

ラフシモンズディオールを去った時、私はかの洋服に対して興味を失った。

コレクションを追うのをやめた。

そんなある日、ヤフーニュースにてディオールの新作として i am feministと書かれたTシャツが出て、女性セレブ達がこぞって着ているという記事を目にした。

 

その瞬間、私はディオールに背を向けた。

 

ラフシモンズだったなら、こんなデザインはしなかったであろう。

彼が男だからではなく、現代における最も才能と知性に溢れたデザイナーの一人であるからである。

少なくとも、ディオールという場においてはそんな安易なメッセージを発することは許されない。

 

ある種の洋服は一種の芸術となりうる。

音楽と同じ消費される、生活に根付いた芸術である。その中では様々な主義主張が表現されるであろう。

私は洋服や音楽で政治や主義を語るなという意見には真っ向から反対する。

ジュリアーニを批判する!!!やLCD soundsystemを熱烈に支持しているし、アジアンカンフージェネレーション後藤正文原発に対して発言するのも是としている。

生活に根付いた芸術であるからこそ、生活について語らずにはいられない。生活は政治や主義と固く結びついているから。生活は政治や主義によって容易に影響されるものであるからだ。

しかして、しかして彼らのうち誰が、音楽を政治を語るための手段としていただろう。

そこにあったのはまず優れた音楽であった。

洋服や音楽は政治や主義のための手段では無い。決して無いのだ。

 

白いTシャツに i am feminist と書くことはわかりやすい主張である。

しかしそれは優れたデザインたり得るのだろうか。

そのTシャツの形はその文字をなくしても成立する、美しいデザインであっただろうか。

 

 

ラフシモンズディオールでのファーストシーズンを思い出す。生花に埋め尽くされた壁とそこを歩く完璧にデザインされた洋服たちを思い出す。

とんでもなく贅沢な空間である。

それがフェミニズムでなく何だというのか。

 

 

ただ私のこの頑なな態度にはフェミニズムという言葉のもつ威力が大いに関係している。

フェミニズムという言葉が私の心を仄暗くする。

フェミニズムという言葉が私の自信を無くさせるのである。

 

職場における男女について考えてみる。

私の職場は8割を男性が占めている。しかし近年女性の進出がめざましい分野である。

基本的に同じキャリアの男女では同額の給料をもらえ、同等の扱いを受ける。

産休や育休も取りやすく、子育てのための時短勤務にも対応をしてもらえる。

そのぶんの業務を手分けするのは同期の男性もしくは子の無い女性である。

つまり、一人の女性が当然の権利を主張するとその分はみ出た業務を処理する男性もしくは子供のいない女性が必要となるのだ。

その何となく仄暗い気持ちはホールとなって溜まっているのを見ると何とも言えない気持ちになる。

 

双方の気持ちがわかるし、時には双方の気持ちがわからない。そのすり合わせが私にはできない。

 

私は私の地べたからみた現実を通してしか社会を見ることができない。

私の地べたでは、結婚せずに働く女性に対しての男性からの差別も、結婚して子供を持ちながら働く女性に対する男性からの差別、どちらも存在している。

 

 

by エビスビール